2024年9月 4日 (水)

有史以来最大の媒体はクチコミ

クチコミに関するグッドマンの法則

・苦情を言ってくるお客様は、26件のうちの一人と分析しています。つまり同じ思いのお客様が他に25人もいることになります。

・苦情の感情を持ったお客様は、そのことを平均して910人に話します。

・その結果、一件の苦情の申し出があったとき、250人前後の方が何らかの苦情を知っていると思った方がよいのです。

ケーキ店選択時、どちらのメッセージに影響されるか(全国の消費者1000人調査)

A 「あの店のケーキ、最高の美味しさなの(口コミ)」87%、

B 「当店のケーキは、最高の美味しさです(広告のイメージ)」13% 

媒体別「情報」の信頼度

(口コミ)は・・・・・(とても信頼できる)10%(信頼できる)60%、(どちらともいえない)28% (信頼できない)2% (まったく信頼できない)0

店頭で見る情報・・・・(とても信頼できる)3%、(信頼できる)42%、(どちらともいえない)48% (信頼できない)6% (まったく信頼できない)1

インターネットの口コミ情報・・・・・(とても信頼できる)2%、(信頼できる)39%、(どちらともいえない)49% (信頼できない)9% (まったく信頼できない)1

店員から聞く情報・・・・・(とても信頼できる)1%、(信頼できる)31%、(どちらともいえない)57% (信頼できない)10% (まったく信頼できない)1

マスコミに取り上げられた情報・・・・・(とても信頼できる)1%、(信頼できる)27%、(どちらともいえない)50% (信頼できない)17% (まったく信頼できない)5

企業の広告・・・・・(とても信頼できる)0%、(信頼できる)14%、(どちらともいえない)64% (信頼できない)10% (まったく信頼できない)2

参考までに「情報」別に5段階評価の上位2ランク(とても信頼できる)と(信頼できる)を合算した数値を「信頼できる」に置き換えると、

友人・知人からの情報(口コミ)70%   店頭で見る情報 45

インターネットの口コミ情報 41%    店員から聞く情報 32

マスコミに取り上げられた情報 28%   企業の広告 14

クチコミはどのように広がるか

マイケル・カファキーは「クチコミは…堂々と、だが静かに広まっていく。その間、広告業者たちは、クチコミと同じくらい劇的な効果をあげる広告をつくろうとがんばるが、結局うまくいかない。市場にはハイテクを駆使した誇大広告があふれている。クチコミとは、そうした広告をふるいにかけるため、我々の脳が備えたローテク技術なのである」。

クチコミが受け手の態度に与える影響

クチコミには、既存の考えを補強する働きだけではなく、意見を変更させたり、新たな意見や態度を創出させたりする働きも含まれる。

アトキン(Atkin,1962)の実験では、利用スーパーを変更した人のうち、理由が広告にあった人は48%であったのに対して、クチコミにあった人は80%に上った。

(文中「クチコミ」と「口コミ」併用は原典尊重のため)

※参考文献『苦情学』(関根眞一著/ 恒文社刊)

『小が大を超えるマーケティングの法則』(岩崎邦彦著/日本経済出版社刊)

『コトラーのマーケティングコンセプト』(フィリップ・コトラー著/東洋経済新報社刊)

『新マーケティング・コミュニケーション戦略論』(亀井明宏&ルデイィ-和子著/日経広告研究所刊)

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2024年8月30日 (金)

「ジェラート」の歴史を年代順に辿ると

最初に登場するのは聖書

ジェラートの起源は諸説いろいろあるようですが、<日本ジェラート協会>によると、ジェラートの歴史として最も古い記録は旧約聖書だそうで、中にでてくる「乳と蜜」が該当するらしい。同協会によると、「長老たちは夏に氷雪で冷やしたミルクシャーベット風の食べ物を愛飲していたと考えられます」とのこと。

ジェラートを最初に求めたのはシーザー

ヨーロッパ一帯からアラブ・エジプトを平定し、クレオパトラとのロマンスでも有名なローマの英雄ジュリアス・シーザー(BC10044年)。彼は、若者をアペニン山脈に走らせ、氷や雪を運ばせて乳や蜜、ワインなどを混ぜて飲んだと伝えられています。史実によれば、これが純粋に嗜好食品としてジェラートを求めた最初といわれているとか。

暴君で名高いローマの皇帝ネロ(DC3768年)は、アルプスから奴隷に万年雪を運ばせて、バラやスミレの花水、果汁・ハチミツ・樹液などをブレンドしてつくった「ドルチェ・ビータ」を愛飲していたといわれています。この「ジェラート風」はローマ市民の間にも広がり、裕福な家庭では自宅に氷の貯蔵庫を設け、宴会などで楽しんだと伝えられている。

古代ヨーロッパ文明の中心は地中海

シシリー島は東西文明の十字路ということもあり栄華を極めた。9世紀前半から2世紀半に亘りアラブ王サセランに支配され、イスラム文化が定着。アラブの「シャルバート」も伝えられ、その後「ソルベット」(シャーベットのイタリア語)へと変わっていく。シシリー島の様々なソルベットの中には、果実をふんだんに使った「カッサータ」があった。

アイスクリームが中国からイタリアへ伝わったという説も

それを持ち帰ったのがマルコ・ポーロ(12541324年)。彼の「東方見聞録」のなかには北京で乳を凍らせたアイスミルクを味わったという記述があり、その製法を伝えた。これがヴェネッィアで評判となり、氷菓の製法は北イタリア全土に広がったとも。その一方で、アラブから伝わったシャルバートがジェラートの発展に寄与したとの見方も。

メディチ家が果たした役割

1533年、ルネッサンスにも多大な影響を与えたフィレンツェの大富豪メディチ家から、カトリーヌ・ド・メディチがフランス王アンリ2世に嫁いだ。彼女は菓子やアイスクリーム職人を始め、多くの料理人を伴ってお国入りし、婚礼ではイタリアの豪勢な料理が提供された。なかでも各種フルーツをあしらったシャーベットは、フランス貴族を驚嘆させた。

ジェラートが現在の形になったのは16世紀になってからのこと。フィレンツェ出身の芸術家・建築家であるベルナルド・ブオンタレンティがジェラートを正式に開発し、それがフィレンツェの大富豪メディチ家によって秘匿(製法は国家の秘法)されてきたという。息女の婚姻によりフランス王室に伝えら、その後、ヨーロッパを中心に急速に広まった。

映画『ローマの休日』で欧州から全世界に

映画の中で、オードリー・ヘプバーン演じるアン王女はスペイン広場でジェラートを頬張る。このシーンは観客を魅了し、人々は、これまで以上にジェラートに憧れるようになったという。母国イタリア以上にインパクトがあったのがアメリカ。その衝撃がいかに大きかったかは、米国での映画公開日827日が世界で「ジェラートの日」になったこと。

※参考文献:「日本ジェラート協会」「竹田牧場」などの関連Webサイト等

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2024年8月 9日 (金)

署名作家たちは限りなく猫を愛していた

夏目漱石の「猫の死亡通知」

『作家と猫』(平凡社刊)に掲載された葉書の「死亡通知」をそのまま転載。

「辱知猫儀久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にかうらの物置のへっつい(竈)の上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰めにて裏の庭先にて執行仕候。但主人『三四郎』執筆中につき、御会葬には及び不申候。以上 九月十四日」

前記出典の(編集部注)によると、掲載された「猫の死亡通知」は、漱石の門下生で、ドイツ文学の小宮豊隆氏(著書『夏目漱石』で芸術院賞を受賞)に宛て1908年に送られた葉書の文面による。文中に登場する「猫」は小説『吾輩は猫である』のモデルとなった猫とされ、小宮豊隆氏は、漱石の小説『三四郎』 の主人公のモデルであるとも言われている。

向田邦子さんの愛猫紹介

マハシャイ・マミオ殿

偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・新しいもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・オッチョコチョイ……。

きりがないので止めますが、貴男は誠に男の中の男であります。

私はそこに惚れているのです。

内田百閒の「迷い猫広告」

『作家と猫』(平凡社刊)に掲載された葉書の「死亡通知」をそのまま転載。

「三たび」迷い猫について皆様にお願ひ申します 

家の猫がどこかに迷ってまだ帰ってきませんが、その猫はシャム猫でも、ペルシャ猫でも、アンゴラ猫でもなく、極く普通のそこいらへんにどこにでもいる平凡な駄猫です。

しかし戻って来なければ困るのでありまして、往来で自転車に轢かれたり、よその橋の下で死んでいたり、猫捕りにつれていかれたり、そう云うこともないとは申されませんが、すでにいちいち考えて見て、或いは調べられる限りは調べて、そんな事はまずないと思うのです。

つまり、どこかのお宅で、迷い猫として飼われているか、又は、あまり外へ出た事がない若猫なので、家に帰る道がわからなくなって、迷っているかと思われるのです。

どうか似たような猫をお見かけになった方はご一報ください。お願い申します。

大変失礼なことを申すようですが、猫が無事に戻りましたら、心ばかりの御礼として三千円を呈上いたしたく存じます。

その猫の目じるし

1雄猫、2背は薄赤の虎ブチで白い毛が多い、3腹部は純白、4大ぶり、一貫目以上もあったが痩せているかもしれない、5顔や目つきがやさしい、6眼は青くない、7ひげが長い、8生後一年半余り、9ノラと呼べば返事をする。電話番号

(編集部注)溺愛していた飼い猫「ノラ」が19573月に失踪し、悲嘆に暮れていた百閒は『朝日新聞』に迷い猫の広告を出す。その後は約2週間ごとに五種類のチラシを印刷、百閒の住む麹町界隈で新聞の折り込み広告として配られた。広告で百閒はノラの目撃情報を募るとともに、「その猫の目じるし」として愛猫の特徴を列記している。

※参考文献:『作家と猫』(平凡社刊) 参考までに「章立て」を記すと

Ⅰ 猫、この不可思議な生き物 「猫の定義」ほか9名の作家が登場

Ⅱ 猫ほど見惚れるものはない 向田氏「マハシャイ・マミオ殿」含め10名の作家が登場

Ⅲ いっしょに暮らす日々 12名の作家が登場

Ⅳ 猫への反省文 5名の作家が登場

Ⅴ 猫がいない 内田百閒「迷い猫の広告、漱石「猫の死亡通知」含め8名の作家が登場

Ⅵ 猫的生き方のススメ 5名の作家が登場

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2024年8月 7日 (水)

橋物語「自殺防止」「執筆法」「告白」

その昔のイギリスの話です。ブラックフライヤーズ橋という自殺の名所といわれた、文字通り黒い橋がありました。何とか自殺を減らしたいと考えた市の行政官は、橋の色を黒から明るい緑色に塗り替えました。すると、色を変えただけなのに、自殺者が3分の1に減ったのです。緑色はアセチルコリンを分泌させ、ストレス解消という効果があるとか。

青色灯の自殺防止、防犯効果と麻薬中毒の関係

青色防犯灯も犯罪の予防効果があるといわれている。イギリスの都市グラスゴーで景観のために街灯を青色に換えたら犯罪が減った(青色だと静脈が見づらく麻薬中毒者が去った?)ことが発端となり、今や日本各地の自治体や自殺の多い駅のホームにも採用されている。他の場所と雰囲気が違うことを警戒して犯罪や自殺が減ると考えられている。

「ヘミングウェイの橋」と呼ばれる執筆法

彼は物語の展開がわかっているときだけ、その日の筆を擱くようにしていたのです。アイデアとエネルギーをすべて出し尽くしてその日を追えるのではなく、次の話の分岐点が鮮明になったところで終わりにする。そうすることで、次の日にまた取りかかるときは、話が見えているのでスタートが簡単だからなのだと。

吊り橋効果

アメリカで行われた心理学の実験では、危険な場所にいた男性ほうが、同一女性に倍くらいの魅力を感じた。ゆらゆら揺れる不安定な橋の上では、手すりを強く握りしめなければならないため、緊張の中で男性の心臓が早く鼓動し、息を切らし、汗をかいていたのでしょう。状況による生理的な違いが感性に働きかけた可能性が指摘されている。

実験は、ブリティシュ・コロンビア州の公園で行われた。魅力的な女性調査員が男性たちに近寄り、「授業の一環として、風景の美しさに関する調査をしているので、質問に答えてください」と言う。研究者たちは、質問に答えた男性のうち、その後何人がアシスタントの女性に電話をかけデートに誘ったか、声をかけられた場所別にその人数を記録した。

すると驚いたことに、安全な場所にいた男性よりも、深い渓谷にかかっている、渡るのに勇気のいる吊り橋の上にいた男性のほうが、女性に魅力を感じる確率がはるかに高かった。橋の上で話しかけられた男性のうち、65%が彼女に電話し、デートに誘った。ベンチで女性に話しかけられた男性のうち、電話をしてデートに誘ったのは36%だった。

吊り橋は高所だから緊張する。高所恐怖症でなくても多少はドキドキする。そうしたドキドキ時に告白されると、脳はおバカさんなので、そのドキドキしている理由を勘違いしてしまう。「あれ、自分はときめいているのか?」と。つまり、本当は吊り橋が怖くてドキドキしているのに、「告白してきたあの人が魅力的だから…」と早とちりするらしい。

※参考文献:『感性がビジネスを支配する』(小暮桂子&青木かおり著/フォーストプレス刊)

『仕掛学』(松村真宏著/東洋経済新報社刊)

『時間に追われない「知的生産術」』(ティアゴ・フォーテ著/東洋経済新報社刊)

『一瞬の表情で人を見抜く法』(佐藤綾子著/ PHP研究所刊)

『単純な脳、複雑な「私」』(池谷祐二著/朝日出版社刊)

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2024年7月30日 (火)

「地名」の由来は人名、自然、文化など

文京区の小石川(元は小石川村)の「春日」は徳川三代将軍家光の乳母・春日局が賜ったことに因む。同じく文京区の「音羽」は1681年に江戸城奥女中・音羽にこの土地を与えたのが由来。渋谷区の「初台」は徳川秀忠の乳母・初台局が自分の菩提寺として正春寺を建立したことによる。東京23区を見渡してもこれほど艶っぽい地名はないだろう。

JR山手線の駅名でもある有楽町は、信長の弟・織田有楽斎の屋敷があったことに因む。東京の玄関口・八重洲は、日本に漂着したオランダ人で家康の厚遇を得たヤン・ヨーステン(ヤウスとも)の屋敷を「八重洲御殿」と読んだのが地名の起こりだという。地下鉄の駅名になっている皇居西側の半蔵門は、伊賀忍者・服部半蔵の組屋敷があったことに由来。

認められないはずの同一市名が誕生したワケ

同音同字体の市名は、これまで東京都と広島県の府中市ただ一例。本来は、同音同字体の市名は認められていないのだ。昭和の大合併で誕生した府中市の場合は例外中の例外で、まだ自治省(現総務省)の指示が徹底していなかったうえに、両市とも市になったのが同時期だったために起きた現象。ところが、平成の大合併でまた1組誕生することになった。

「伊達市」である。伊達郡7町(その後2町が離脱し5町に)が「伊達市」を申告するも、すでに北海道にあり、好ましくないと跳ね返された。その後他の申請事例等を踏まえ総務省の姿勢が「既存の市から異論がなければ支障ない」と変更された。そこで、北海道「伊達市」に問い合わせると、福島県の「伊達」への配慮から了解が得られ、2例目が誕生した。

本拠地が鹿嶋市なのに「鹿島アントラーズ」なのはなぜ?

Jリーグ発足時(1993年:平成5年)に参画(オリジナル10)したチームは、地元が「鹿島町」だったことから「鹿島アントラーズ」と命名された。ところが1995(平成7)年に鹿島町他が市に昇格する際、鹿島市を申請したが、佐賀県に同名市が存在することから変更を求められやむなく「鹿嶋市」とした。チーム名はファンの心証を慮りそのまま継続。

日本は難読地名の宝庫

「一口」は、一般の常識では「ひとくち」「いちくち」「いっこう」としか読めないが、実は「いもあらい」と読む。京都市のさらに南に久御山町がある。そこに昔から「一口(いもあらい)」という地名がある。この地は桂川、宇治川、木津川の合流地点だという。語源は不明確ながら、「自然災害時の斎(いみ)を祓(はら)う」説には説得力がありそう。

 

実は東京にも、イモアライに関する地名が3つある。いずれも坂の名前。まずは、六本木の交差点近くに「芋洗い坂」がある。さらに、靖国神社のすぐ裏手の坂が「一口坂」。現在は「ひとくちざか」と呼んでいるが、もともとは「いもあらい坂」であった。もう一つはお茶の水駅のすぐそばにある「淡路坂」がそれ。この坂は昔、一口坂とも呼ばれていた。

地名のついた色

「新橋色」:緑がかった明るい青。

「根岸色」:灰みの黄緑色。根岸とは現在の東京都台東区にある地名。

「深川鼠」:青みがかった灰色で「淡鼠」と同色とされます。

「江戸紫」:武蔵野に自生した紫草の根である紫根で染めたことに由来する、青みの紫色。

 

※参考文献;『東京の地名 由来辞典』(竹内誠編/東京堂出版刊)

『日本の地名 雑学辞典』(浅井健爾著/日本実業出版社刊)

『地名の魅力』(谷川彰英著/理想社刊)

『日本の色手帳』(日本色彩学会監修/東京書籍刊)

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2024年7月26日 (金)

「母から息子へ」「子から母へ」の手紙

文字を学び直して書いた、野口英世への母(シカ)の手紙

「お前の出世には、皆たまげました。

私も喜んでおりまする。

どうか早く来てくだされ。

早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。

一生の頼みでありまする。

西さ向いては拝み、東さ向いては拝み、しております。

北さ向いては拝みおります。南さ向いては拝んでおりまする。

早く来てくだされ。

いつ来ると教えてくだされ。

この返事、待ちわびておりまする。

寝ても眠られません」

『親のこころ』(木村耕一編著/万年堂出版刊/p.90-91より)

しかし、研究に追われる英世は、この手紙を受け取っても帰国しなかった(研究が佳境で、多忙で帰国できなかったのも一因か)。これを見かねた英世の同郷の友人が、母親の写真を撮ってアメリカに送った。英世は、母の写真を一目見て、大きな衝撃を受けた。そこには、男勝りだった記憶の中の母親の面影がまったくなかったからである。

野口英世の生まれ故郷である福島県猪苗代町では、この手紙に因んで「母から子への手紙」コンテストが「猪苗代町絆づくり実行委員会」によって続けられている。日ごろ心に秘めている「わが子への想い」を手紙に託し、互いの絆を見つめ直してみようとの主旨。日本全国から寄せられた四千通の母から子への手紙が2003年以降毎年書籍化されている。

 

日本一短い手紙として知られ、簡潔手紙の手本とされるのは、徳川家康家臣の本多重次(通称:作左衛門)が長篠の戦の陣中から妻にあてて書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」とされる。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重)のこと、といわれる。この本多家の居城が福井県丸岡町にある丸岡城。

こうした関係から、平成5年に福井県丸岡町が主催で、日本で初めての試みとして、単なる町興しの為でなく、手紙文化の復権及び昂揚の一環として企画され、一冊の作品集として刊行されたのが『日本一短い「母」への手紙』(福井県丸岡町編/大巧社刊)。32,236通の手紙が寄せられ、その一通一通にへの想いが満ちあふれている。

第一回一筆啓上賞(郵政大臣賞)10作品

お母さん、雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。

もうすぐ雪ですね。(天根利徳さん作)

 

あと10分で着きます。手紙よりさきにつくと思います。

あとで読んで笑って下さい。(瀬谷英佑さん作)

 

「私、母親似でブス。」娘が笑って言うの。

私、同じ事泣いて言ったのに。ごめんねお母さん。(田口信子さん作)

 

桔梗が、ポンと音をたてて咲きました。

日傘をさしたお母さんを、思い出しました。(谷本栄治さん作)

 

母親の 野太い指の味がする

ささがきごぼう 噛まずに飲み込む(鶴田裕子さん作)

 

絹さやの筋をとっていたら、無性に母に会いたくなった。

母さんどうしてますか。(中村みどりさん作)

 

おかあさんのおならをした後の、「どうもあらへん」という言葉が、

私の支えです。(浜辺幸子さん作)

 

お母さん、ぼくの机に引きだしの中にできた湖を

のぞかないで下さい。(福田越さん作)

 

お母さん、私は大きくなったら家にいる。

「お帰り。」と言って子供と遊んでやるんだよ。(藤田摩耶さん作)

 

お母さん、もういいよ。病院から、お父さん連れて帰ろう。

二人とも死んだら、いや。(安野栄子さん作)

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2024年7月15日 (月)

米国の大実業家3者3様の新聞少年体験

❖新聞販売活動から「顧客データ」の価値に目覚めたマイケル・デル氏

日米とも、新聞少年は貧しい家庭環境の人たちが多いようですが、マイケル少年は裕福な歯科医師の家庭だった。その彼が新聞販売に携わったのは、学費目的ではなく、株式仲買人であった母親の影響で、早くからビジネスに関心を寄せていたからだという。その早熟な少年が16歳時に始めたのが新聞の新規購読勧誘のアルバイトだった。

彼は、新規購読者獲得の努力を続ける中で、効率よく契約を獲得するには、ターゲットの絞り込みがポイントになることを理解した。その彼が有力ターゲットとしたのは、「新しいコミュニティに引っ越してきた」「家を建て替えた」「子供ができた」「結婚した」など、直近に生活環境に変化が生じた人たち。まさにマーケティングの実践者だったといえる。

このように、顧客データを分析することで、マーケットのニーズが読み取れることを学んだ彼は、パソコン市場に進出するが、マーケットの熟成度がかなり高まってきていることから、余分なコストをかけず、ユーザーが求めるスペックを提供するという、業界初の受注生産方式を採用した。高度な顧客データ分析が業績向上に寄与したのは言うまでもない。

❖サム・ウォルトンの「やり通す力」を育んだ新聞販売コンクール

彼の弟が兄の成功の秘密を尋ねられた際に述べた言葉は、「子どものころから、サムは心に決めたことをやり通すという点ではずば抜けていた。それは彼の天性の才能だと思う。彼が新聞配達の仕事をしていた頃、ちょっとしたコンテストがあった。確かではないが、賞金は10ドルだったと思う。彼は1軒1軒新聞を売り歩き、コンテストに優勝した」。

サム・ウォルトンの事業は1962年まで雑貨店だったが、この年の7月に最初のウォルマート・ディスカウント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。立地は、周囲から無謀と評されたが、ここから次々に出店を続け、32年後の1999年には世界最大規模のチェーンストアに。新聞少年時代のコンテスト優勝にその片鱗が見て取れるかも。

❖ウォルト・ディズニーを終生苦しめた6年間の新聞配達体験

アイルランド移民だったディズニー一家が最初に住んだカンザスシチーで、父親は新聞販売業を始めることにし、朝刊の『タイムズ』紙と夕刊および日曜版の『スター』紙の配達を700件受け持った。ウォルトは妹のルースと小学校に通っていたが、やがてロイ(すぐ上の兄、その後共同経営者となる)とともに父の新聞配達の仕事を手伝うようになった。

彼は毎朝3時半起床、4時半から来る日も来る日も、朝と夕、新聞配達を続けた。6年間で休んだのは病気の4週間だけであった。まだ幼なかった彼は何度も雪の吹きだまりに転げ落ち首まで埋もれた。受け持ち区域のどこかに新聞を配達し忘れたのではないかという不安は、その後も繰り返し夢となって、ウォルト・ディズニーを晩年まで苦しめた。

※参考文献: 『ビョナリー・ピープル』(ジェリー・ポラス&スチュワート・エメリー&マーク・トンプソン著/英治出版刊)

『デルの革命』(マイケル・デル著/ 日本経済新聞社刊)

『サービスが伝説になるとき』(ベッツィ・サンダース著/ダイヤモンド社刊)

『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯』(ボブ・トマス著/講談社刊)

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2024年7月 8日 (月)

新しい文化を創造した『サラダ記念日』

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日

この歌が実体験からが生まれたことはよく知られている。かつて恋人と一緒に野球を観戦に行ったとき、彼女の手作り弁当の中にはカレー風味の唐揚げが入っていた。これを「この味がいいね」と彼がいった。その小さな感動(恋心には大きかったかも)が発端。注目すべきは、「この味がいいね」の対象がサラダではなくて唐揚げだったこと。

歌人の感覚は、嬉しさや前向きな気持ちがモチーフにしたこの歌に唐揚げは重い。もっと爽やかで軽やかな語感の食べ物が似合っている。そこでサラダを思いついた。そうなると季節は野菜が元気な6月か7月が適しているそうで、ならば断然、「サラダ」の「S音」と響きあう7月の方がいいと。なお、唐揚げだと「K音」なので「9月」となるとか。

『ちいさな言葉』(俵万智著)によると、「サラダ記念日・短歌くらべ」という短歌のコンクールが毎年7月にあり、サラダをテーマにした短歌を募るという。年に7千首も寄せられ、ある年、俵さんが美味しいそうと思ったのは「夏みかんと白菜のサラダ」「上質のオリーブオイルとゲランドの塩で食べるトマトサラダ」「ひよこ豆のサラダ山葵風味」など。

1987年(昭和62)年に河出書房新社から発売された『サラダ記念日』は280万部を超える大ベストセラーになった。同作品には、とても有名な表題歌の他、第32回角川短歌賞を受賞した『八月の朝』などを含む434首が収録されている。この歌集の出版を機に、全国に短歌ブームが起き、また「○○記念日」という言葉が一般に定着することにもなった。

『サラダ記念日』に寄せた佐佐木幸綱氏(早稲田大学の指導教官)の「跋」より

(前・中略)一昨年の角川短歌賞で「野球ゲーム」が次席になり、次いで「八月の朝」が昨年の第32回角川短歌賞受賞作となって、俵万智の歌は歌壇の話題をさらった。さらに、新人類とかライト・ヴァースとか、ちょうど頃合いの流行語と出会うという巡り合わせもあって、話題の輪は歌壇の外側へも広がっていった。

では、俵万智の歌のどこが、新人の名にふさわしい新しさなのか。

まず、口語定型の文体の新しさ。昭和初期と戦後を二つのピークとして、口語短歌が盛んに行われたことがあった。だから口語短歌そのものは新しくもなんともないのだが、彼女の短歌は口語でありながら、そのほとんどがきちっと五七五七七の定型リズムに乗っている。

字余り、字足らずがほとんどない。

かつての口語短歌は破調に寛容であり過ぎた。具体的に言えば、語尾の処理がうまくいかなかったのだった。俵万智の歌は、会話体を導入し、文末に助動詞が来る度合いを減らす工夫がほどこしてある。この辺りがかつてのそれと一味違うのである。

2024年1月10日朝日新聞夕刊 俵万智とAI

「言葉からことばつむがずテーブルにアボガドの種芽吹くのを待つ」

AIが瞬時に100首もの短歌を生成する様子を目の当たりにした彼女は、「言葉から言葉を紡ぐことならAIにもできるが、ゼロから言葉を生み出すことは人間にしかできない。一首一首、世界を見つめ、心から言葉を紡ぐ時、歌は命を持つ」との思いが文頭一首にも。

※参考文献:『日本語の秘密』(川原繁人著/講談社刊)

『ちいさな言葉』(俵万智著/岩波書店刊)

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2024年6月29日 (土)

アメリカを代表する3人の歴史的名演説

米国大統領で雄弁家として知られるウィルソン(第28代)の演説に関する興味深い有名なコメントがあります。あるときウィルソンが演説の心得を聞かれて、こう答えました。

1時間の演説なら即座にできる。20分のものでは2時間の準備が必要だ。5分間のショーとスピーチだったら、一晩、思いを練らなくてはならない」と。

5分よりもっと難しい2分間の名演説

1863年の秋のこと、アメリカのゲティスバーグに、南北戦争の戦死者のための国営墓地がつくられ、その奉献式が行われた。教育家として、また雄弁家として有名なエドワード・エバレットは、その式の主賓として招待されており、そこで2時間のわたる素晴らしい演説をおこなった。それに続いたリンカーンの演説は、たったの2分間。

87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神に育まれ、すべての人は平等につくられているという信条にささげられた、新しい国家を、この大陸に打ち建てた」と語り出し、そして、「この国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため」に、戦死者が残した未完の大事業を受け継ぐという言葉で結ばれた(『リンカーン演説集』)。

今日まで、アメリカ合衆国の建国の理念を語るものとして、また民主主義のもっとも簡潔な定義を明らかにしたものとして、不朽の価値を持つ演説といわれる。リンカーンの演説の方が歴史に残ったのは、私たちが簡潔な話の方を好むという証拠でもあるかもしれない。2時間より、2分の話の方が遥かに難易度は高いが、私たちの耳には、ありがたいのだ。

僅か115文字の中に8回「アメリカ」を織り込んだオバマ氏

2004年7月、ボストンの民主党全国大会の基調演説で、彼は終盤にこう語りかけた。「私は今夜、彼らにこう言います。リベラルのアメリカも保守のアメリカもない。あるのはただひとつ、アメリカ合衆国なのだ、と。黒人のアメリカも白人のアメリカもラテン系のアメリカもアジア系のアメリカもない。あるのはアメリカ合衆国だけなのです」と。

キング牧師の演説「わたしには夢がある」

1963828日に、公民権運動のリーダー的な存在となっていたキング牧師は、奴隷解放百周年を記念したワシントン大行進というイベントを実施します。前日の夜遅くには全国から人々が続々とワシントンDCを目指してやってきました。最終的には主催者側の想定10万人をはるかに超える25万人(うち6万は白人)もの大群衆になりました。

「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘でかつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟のように同じテーブルを囲む日が来るという夢が」

「私には夢がある。不正と抑圧の熱波でうだるように熱いミシシッピ州でさえも、いつの日か、自由と正義のオアシスに変貌するという夢が」

「私には夢がある。いつの日か、私の幼い4人の子供たちが、肌の色ではなく中身によって判断される国に生きるという夢が」

※参考文献:『左遷の哲学』(伊藤肇著/産業能率大学出版部刊)

『人は「暗示で」9割動く!』(内藤誼人著/すばる舎刊)

『あの演説はなぜ人を動かしたのか』(川上徹也著/PHP研究所刊)

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2024年6月26日 (水)

五輪の名言とクーベルタンの名プレゼン

1908年の第4回ロンドン大会は、英米間でトラブルが多発した。当時実施されていた綱引きでは、英チームの選手の靴に鋲が打ってあると米が猛抗議したが、通らず米は棄権した。また、陸上400メートルでは米3人、英1人で決勝が行われたが、ランナー同士の接触が元で両国がにらみ合い。再レースを米が棄権し、英1人のみが走って優勝した。

そんな中、競技の休日とされていた日曜日、セント・ポール大寺院の礼拝で、ペンシルベニア司教のエセルバート・タルボットが「オリンピックで重要なのは、勝つことではなく、参加することである」と話し、英米の対立を諫めた。これを聞いて感激したクーベルタンは、後日、国王招待の晩餐会で司教の言葉を披露し、これこそ五輪の理想であると話した。

失敗に終わったクーベルタンの1回目プレゼン

オリンピック開催が決まったのは1894617日に開催された、「パリ国際アスレティック会議」だった。なお、クーベルタンが29歳のときの「第1回オリンピック復活プレゼン」は18921125日にイベントのフィナーレを飾る講演会の3番目に登壇するも、準備不足(プログラムにオリンピックの復活が不記載)で、このプレゼンは失敗する。

クーベルタンの回想によると、「聴衆の反応を自分はさまざまに予想していた。そのどれもが悲観的なものだった。夢物語と笑われる? 大風呂敷にあきれる? 反発? それとも無視? 私の予想はすべて外れた。その一方で、大きな拍手があり、みなが成功を祝ってくれたが、私の訴えたことを、誰一人理解していなかった」と。

オリンピック復活を成し遂げたクーベルタン2回目の名プレゼン

前回のプレゼンが失敗に終わった一番の原因は、「オリンピック」とはどのようなものなのかを聴衆に理解してもらえなかったことだとクーベルタンは理解した。「私が復活させたいのはこれだ!」というものを、会議参加者に明確に分かるように提示する必要があると。そのため、彼は準備段階から、大胆不敵で独創的なアイデアを随所に盛り込んだ。

①プレゼン半年前から、彼は根回しを始めた。

②祝典とレセプションを、初日に持ってきた。 

初日に参加者の心を掴み、その後の会議をスムーズに進める狙いから、普通なら会議の最終日に行う儀式を、会期の冒頭に置いた。

③委員会をふたつに分けた。

議論百出のアマチュア問題を1委員会のテーマに押し込め、オリンピックから切り離した。

 

④開会式の入場券に「オリンピック大会復活会議」を印刷した。 

祝典とレセプションを、あたかもオリンピック復活を祝うような印象を与えるために。

⑤会場は今回もソルボンヌ大学大講堂。

「オリンピック会議+名門大学大講堂」の組み合わせで、理性よりも感情に訴えかけた。

⑥ギリシャ国王から感謝の電報。 

復活の賛否を問う投票が行われる2日前に、復活が決まったことに対して、クーベルタンや会議参加者に感謝するというギリシャ国王から電報が届き披露された。これはクーベルタンの確信的なフライングながら、復活会議が既成事実であるかのような錯覚を与えた。

⑦音楽で感動を動かす。 

前年発掘された「デルポイのアポロン賛歌」の楽譜を作曲家ガブリエル・フォーレに合唱曲に仕立ててもらい、これをハープと大編成の合唱をバックに、当時オペラ座花形のジャンヌ・ルマルクに熱唱させ、初日に大講堂に響き渡らせオリンピック復活機運を煽った。

※参考資料:『歴史を動かしたプレゼン』(林寧彦著/新潮社刊)

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2024年6月18日 (火)

老舗の虎屋に伝わる「儀式」と「掟書」

虎屋には代が替わり、新しい当主が事業を引き継いだ時に必ず行う儀式がある。京都の店には福徳、富貴の神様である毘沙門天が祀ってあり、普段は厨子の奥に封印されているが、その中に、九代目の当主・黒川光博氏も一人で入って像を拝んだ。お像の前に立って340分の間対峙していると、いろいろな思いが胸を去来したという。

お客様に対する責任、従業員やその家族に対する責任。何千人という人たちのことをこれから考えていかなければいけないと感じたり。では、自分は何をやるかと考えても、何も書かれたものがなく,これをしてはいけないという決まりもない。だから後のことはお前に任せるぞ。お前がこの時代を背負っていくのだから、自分の責任でやっていけばいいと。

代々残されてきた教えの中「掟書」があり、これが一番現代的で分かりやすいという。そこには、「倹約を第一に心がけ、よい提案があれば各自文書にして提出すること」や「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない。また、子供や女性のお使いであっても、丁寧に応対して冗談は言わぬこと」など。現代にも通用するようなことが諸々書いてある。

ただ、変えてはいけないものがある一方で、変えていかなければいけないものもあるとの思いが九代目にはあるという。やはりその時代時代にあった味というものがあるのではないかと。例えば戦後のような甘味不足の中でお感じになる甘さと、和洋菓子が豊富にある現代の甘さは少し違う。和菓子の味は、時代によって変えていかなければならないと。

「和菓子」という言葉はいつからあるか 『和菓子とくらし(淡交社)』より

「和菓子」は明治時代以降に大量に移入された西洋の菓子と、日本の菓子を区別するために生まれた言葉で、現在のところ明治43年(1910)の『家庭実用百科大苑』に見えるのが、もっとも古い記録だそうです。「和菓子」に定着するまで、邦菓、日本菓子などいろいろな呼び方がありました。辞書に採録されたのは戦後のこととあります。

和菓子の歴史 『和菓子めぐり(発行所:JTB)』より

今でも果物を水菓子というように、本来、菓子とは木の実や果物を指した。甘い食べ物が少なかった時代は、干柿や栗でも貴重な甘味であり、現在私たちのいう菓子に近いものと感じられていたらしい。そのためか果物と菓子の区別が曖昧な時代が長く続く。菓子が嗜好品としての地位を確立し、今日のように多種多様になるのは、江戸時代も半ばのこと。

日本の菓子のもう一つの原形は、穀物を加工した餡や団子と考えられる。こうした日本古来の食物に外来食物の影響が加わり、和菓子の歴史は変化した。その外来食物としてまず挙げられるのが、奈良~平安時代に中国から伝わった唐菓子。多くは、米や麦の粉を練って様々な形に作り、油で揚げたもので、一部は今も神社などで神饌として作られている。

二番目は鎌倉~室町時代にかけ、禅宗とともに伝来した点心(昼食代わりの軽食で、羊羹や饅頭の原形はここに)。三番目は、室町末期よりポルトガルとの交流で入ってきた南蛮菓子(カステラ、金平糖、ボーロなど)。この3つの外来の食物の影響を受け、鎖国下の江戸時代、色・形・名前・素材ともに独自の菓子が作られるようになった。

※参考文献:『11話、読めば心が熱くなる 365人の仕事の教科書 1126日:虎屋に代々伝わる儀式と掟書き(虎屋社長・黒川光博)』

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2024年6月13日 (木)

病気発症時間帯など生活と時間の関係性

代謝の低い朝方は、心的時間のペースよりも物理的時間の進み方が相対的に速くなる。他方、夕方に向けて代謝が激しい時間帯になると、心的時計のペースも速くなるので、時間がゆったり流れるように感じ。このため、記憶力は夕方、論理的判断力は午前中に高まる。精神活動に関しても、24時間の周期性があることが知られています。

私たちの心の状態が身体の影響を受けることを考えれば、身体と同様に精神活動にも1日の時間帯に対応した周期性があることはそれほど不思議ではない。短期記憶や計算能力、注意を必要とするような課題の成績は、体温の高い時間帯(午後4時頃から8時頃)に最もよくなり、論理的な判断は10001400頃に比較的良い状態に至ります。

病気を発症しやすい時間帯

サーカディアンリズム(24時間の身体変動リズム)は、作業の効率だけではなく、さまざまな疾病の発症とも関係があります。たとえば心臓発作や脳卒中、片頭痛、花粉症による鼻炎は午前中におこりやすく、歯痛は夜間に、ぜんそくの発作や死、出産などは早朝、未明の時間帯に生じやすいのです。

このように疾病の発現しやすい時間帯があるという特性は、身体時計がつかさどる身体の内分泌系の変動リズムと対応していると考えられています。私たちの身体の状態は常に一定ではなく周期で変動します。そのために、薬効も時間帯によって違うため、薬効が生じやすい投薬のタイミングを操作する手法は「時間医学」において実施されています。

一日の始まりを正しく迎える

研究によれば、人間のストレスホルモンの大半は、目覚めてから数分のうちに分泌される。それは、「闘争・逃走」本能が刺激され、血液中にコルチゾールが分泌されるからだ。試しに、目が覚めたら、横になったままで2分間、自分の呼吸を意識する。これからの1日のことが頭に浮かんだら、意識をそこから逸らして自分の呼吸に注意を戻すようにする。

出社したら仕事に取りかかる前に10分間、マインドフルネスの短いエクササイズをして脳の力を高めよう。目を閉じてリラックスし、背筋を伸ばして座る。そして全意識を自分の呼吸に集中させる。一連の意識の流れを、息遣いだけに向けるのだ。吸って、吐いて、吸って、吐いて。呼吸に集中しやすいように、息を吐き出すたびに回数を無言で数えよう。

集中する時間のつくり方

2014年、イギリスのメンタルヘルス・ファンデーションが実施した調査で、長時間働いているとどんな変化が生じるか尋ねたところ、従業員の58%が「怒りっぽくなる」、34%が「不安になる」、27%が「気分が落ち込む」と回答した。誰もが責務を背負っていて、プレッシャーを感じているのだから、ストレスを感じることもあるだろう。

だが、注意深くセルフマネジメントをおこなえば、大切にしている目標に集中するための時間を捻出できるようになる。そのために、次の点を心がけよう ⦿「ノー」と言えるようになる ⦿「より長く」働くのではなく、「より賢く」働く ⦿メールと距離を置く ⦿終業時刻がきたら、かならず仕事を切りあげる ⦿「完璧」にこだわらない

参考文献:『「時間の使い方」を科学する』(一川 誠著/PHP研究所刊)

『マインドフルネス』(ハーバード・ビジネス・レビュー編集部編/ダイヤモンド社刊)

SWITCH CRAFT 切り替える力』(エレーヌ・フォックス著/NHK出版刊)

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2024年6月 5日 (水)

落語&吉本喜劇による病的痛み緩和効果

『生命のバカ力 *1』によると、遺伝子のONOFF機能をうまく活用するには、それなりの要因が必要です。例えば、末期がんを宣告された人達がモンブラン登頂に挑戦したところ、免疫力が上昇したという実例がありあす。また、がん患者に落語を聴かせ、大いに笑ってもらったあとで免疫力を測定したら、向上していたという臨床報告もあります。

第一の事例:日本医大の吉野教授の実験

19953月、日本医大の吉野教授は水道橋にあった日本医大病院に落語家の林家木久蔵師匠を招き、中程度から重症の26人(4366歳迄平均577歳)の女性リュウマチ患者さんたちに落語を1時間聞いてもらい、その前後に血液を採取して調べてみた。比較対象のため健康な女性31人(3174歳迄平均515歳)にも参加してもらった。

その結果、痛みの程度をVAS(ビジュアル・アナログ・スケール=10センチの物差しを使って、想像できる最高の痛みを10として、いまの痛みはどのあたりかを指し示してもらう方法)を使って調べた結果、落語を聞く前と後では、わずか一時間笑っただけで全員が痛みが楽になり、3週間もその効果が続いた人もいたそうである。

 

血液データとしては、炎症の悪化のカギとなる物質で免疫にも関係する生理活性物質「インターロイキン6」と「インターフェロン」が独演会の後では顕著に減っていることがわかった。特にインターロイキン6の減少は26人中22人に見られた。中にはその値が健康な人の10倍以上あったのに、正常範囲まで改善した患者さんもいた。

第二の事例:岡山県倉敷市の柴田病院の伊丹仁朗先生による実験

1991年、笑ったあとで血液中の免疫力がどう変化するかの実験。がんや心臓病の人を含む男女19人(2062歳)に吉本新喜劇を見せ、その前後に採血し、3時間の笑いの効果を調べた。がん細胞を食いちぎってやっつけてしまうナチュラル・キラー(NK)細胞の元気度は、笑う前に低過ぎた人はすべて正常まで改善し、高すぎた人も正常範囲に戻った。

大笑いは心理的な効果だけでなく、短時間に免疫力を正常化させる効果があることがわかった。注射で免疫力を活性化するには3日もかかるが、笑うことは、とても速効性があるのである。1年後、がん患者さんばかり20人で実験を追試してみたが、やはり同じ効果が出た。この実験結果は日本心身医学学会総会で発表され、最優秀論文の栄誉に輝いた。

米国のジャーナリストの事例

1964年、50歳のときに、外国旅行から帰国した直後、突然、膠原病(強直性脊椎炎)という難病に襲われ、医師から、全快のチャンスは500分の1と言われました。このとき彼は、「医者に見放されて、もうダメだ」と思うのではなく、こう考えたと言います。「何もかも、医師に任せ切ったのではダメだ。自分でも、何とかしなくては…」と。

そして、彼は10分間腹を抱えて笑うと、少なくとも2時間は痛みを感ぜずに眠れるという笑いの効用に気づき、病室にユーモアあふれるコミック、映画やテレビ番組のビデオなどを大量に持ち込み、それを見ては意識的に大声で笑うようにしました。こうした取り組みが血液中の血沈を低下させるなどの効果に繋がり、やがて職場に復帰できるまで回復した。

※参考資料:*1『生命のバカ力』(村上和雄著/講談社刊)

『笑いの研究』(井上宏&織田正吉&昇幹夫共著/日本実業出版刊)

『笑いと治癒力』(ノーマン・カズンズ著/岩波書店刊)

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2024年6月 2日 (日)

名著『自助論』に登場する興味深い話

「人生は自分の手でしか開けない!」と題した「自助論」の序文より

「天は自ら助くる者を助く」。この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの真理がはっきりと示されている。自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、それは活力に溢れた強い国家を築く原動力となるだろう。

ベートーベンの座右の銘「自らの力で自らを助けたまえ」

ある時、ピアノ奏者のモシュレスが、ベートーベンにオペラ「フィデリオ」のピアノ用楽譜を手渡したが、その最後のぺージのかたすみには「神の助けによって、つつがなく演奏が終わるように」と記されていた。それを見たベートーベンは、すぐにペンを取ると、その下にこう書き足した。「神に頼るとは何たることだ。自らの力で自らを助けたまえ」と。

志が高ければ、いずれ収まるところに収まる

ある日のこと、大工の彼は知事が腰かける椅子の修理を命じられ、カンナをかけていた。だが、その仕事ぶりがバカ丁寧過ぎるため、傍らで見ていた人が理由を尋ねた。すると彼はこう答えた。「実をいうと、私がこの椅子に腰かける日のために、少しでも座り心地をよくしておこうと思ったので」と。しかも不思議なことに彼はその後実際に知事となった。

「ひょうたんザル」の教訓 

アルジリアのカビール地方の農夫は、猿の手が丁度入る位の穴が開いた瓢箪を木に確りと括り付け、中に米粒を入れておく。夜になると、猿が来て瓢箪の穴に手を突っ込み、米粒を鷲掴みにする。そして握った手をそのまま引き抜こうとするが、きつくて抜けない。手を緩めればいいのに、そこまで知恵が回らず、夜が明けると農夫に生け捕りにされる。

ニュートンを襲った不幸

彼の飼い犬ダイヤモンドが、机の上に立ててあった蝋燭を何かのはずみで倒し、貴重な書類が一瞬のうちに灰になってしまった。長年の研究の成果が跡形もなく失われてしまったショックで、彼はその後しばらくの間健康を害し、理解力もかなり減退したという。しかし『年代記』を15回書き直し、『自叙伝』を9度改めた精神力で立ち直りも早かった。

手際の良い仕事のたとえと、多くの仕事を処理する心得

「手際のよさとは、箱に物を詰める仕事に似ている。荷造り上手は、下手な人間の2倍近くも多くの荷物を入れられる」

この指摘をしたという聖職者は、同時に「多くの仕事を処理するいちばんの近道は、1度に1つしか仕事をしないことだ」とも言っている。

10日仕事で金貨50枚は高い?

ある時、ベネチアの貴族がミケランジェロに胸像を依頼した。彼は10日で像を作り上げ、金貨50枚を請求した。貴族は「たかだか10日で仕上げた作品にしては法外な代金だ」と抗議した。だが、ミケランジェロはこう答えた。「胸像を10日で作り上げられるようになるまでに、私が30年間の修業を積んできたということを、あなたは忘れている」と。

モンタギュー夫人の有名な言葉

「礼儀作法には金がかからない。しかも礼をつくすだけで何でも手に入る」

立派なマナーは生活にうるおいを添える。立派なマナーとは立派な行動の別名であり、それは礼儀正しさと親切心から成り立っている。人と人とが有意義で愉快な交際を続けるには、親切心が重要な役割を果たす。

※参考文献:『自助論』(サミュエル・スマイルズ著/三笠書房刊、初版は1849年英国)

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2024年5月21日 (火)

抗菌力など、人を癒す「木の7つの力」

人類(とくに日本人)は木材を利用してきた。日用品や住宅資材など生活の中でありとあらゆるものに木材を利用し、「森と木の文化」を育んできた。なかでも日本には豊かな森林に恵まれ、最も身近なものとして木材があった。そして、豊富な樹種に恵まれたことから木の特性を理解して上手に使い分け、無駄なく利用し、何度も再利用してきた。

 

調湿性・呼吸している木(抗菌性に優れる)

住環境の快適さを左右する要素は温度、風速、湿度の3つといわれる。住宅の内装材に木材を用いた場合とビニールクロスを用いた場合とを比較すると、後者の住宅では1日周期で大きな湿度変化を繰り返す。対して木材の住宅では湿度が50%前後で一定する。これは木材が室内の湿度調節(高ければ湿気を吸い、低ければ吐き出す)を行っているから。

湿度は人間の衛生面とも深い関係がある。病因となる細菌類、カビ類、ダニ類といった微生物は、彼らに都合のよい湿度のときにほこりなどを栄養源として繁殖していく。調査によると、空気中のほこり1グラム当たりに一般の細菌数が64千個、大腸菌が4800個、黄色ブドウ球菌が2700個、セレウス菌が2800個、緑膿菌が210個も発見されたという。

これら浮遊菌は、湿度が高いときや湿度が低い状態では長い間生き続けることができるが、湿度が50%前後では短時間で大半が死滅してしまう。同じようにカビ類は、湿度が80%以上にならなければ増殖を防ぐことが可能となり、ダニ類は湿度が70%以下になるとほとんどいなくなる。壁などの内装に木材を使えば、健康的な生活が保証されるようだ。

 

断熱性・熱が伝わりにくい木

人間の皮膚の表面温度は、環境によって敏感に反応する。コンクリート、塩化ビニールタイル、木材の3種類の材料の床に立った際の足の甲側の皮膚温の変化を測定すると、皮膚温の低下はコンクリートが最も大きく、木材が最も小さくなる。長時間立って作業する台所などでは、足の冷えを防ぐため木材の床が最適といえる。

 

吸音性・人間の耳に優しい木

室内で発生する音は、住宅の内装材で吸収することができる。木材や畳は音を適度に吸収してくれるが、コンクリートでできた部屋では、音が吸収されずに、いつまでも室内に残ってしまう。このように室内の吸音力が小さいと、反射音が大きく、音が響きすぎて耳障りに感じてしまう。反対に吸音力が大きすぎても音が聞きづらく不快感を与えてしまう。

 

緩衛性・衝撃を和らげる木

ただ歩くだけでも、足の裏は膝、腰などに衝撃を受けており、その程度は床の材料によってかなり違ってくる。割れやすいガラスの玉に砂を詰めて落下させ、どのくらいの高さから落としたときにガラス玉が割れるかを調べた実験がある。木材の上に落とした場合は3540㎝だったが、プラスチックの場合は20㎝、大理石では15㎝で割れてしまった。

 

視覚特性・目に優しい木

光の感じ方には、色相、明度、彩度といった要素が関係している。木材の色は種類によってそれぞれだが、一般に黄赤系の暖色と呼ばれる色が多く、暖かいイメージがある。明度は物の重量感が影響するが、黄色っぽい木材は一般に明度が高く軽快ですっきりしたイメージ。赤っぽい木材は明度の低いものが多いことから重厚で深みのあるイメージになる。

 

触感性・歩きやすい木の床

摩擦の度合いを表す数字には、静摩擦係数(止まっている物体が動き出すとき)と、動摩擦係数(滑っているとき)がある。これらが大きすぎると疲労が増え、少なすぎると滑りやすくなり、両係数の差が小さいほど歩きやすく感じる。ヒノキやカエデの床では、摩擦係数が適度に大きく(両係数ともほぼ同じ)が、塩化ビニールタイルの床では差が大きい。

 

芳香性・快適さを感じる香しい木

木材の成分を抽出したものが精油。一つの木には50以上もの種類の成分が含まれる。ヒノキやヒバ、トドマツの精油は、アンモニアでは90%以上、亜硫酸ガスでは100%の脱臭率を示す。脱臭に加え、樹木成分には、殺ダニ効果にあり、屋久杉の精油は3日後までに90%以上を、桜の成分のクマリンは1日で全滅させる効果がある。

※参考文献:『恵みの森 癒しの木』(矢部三雄著/講談社刊)

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«詩歌に詠みこまれた「母の日」の記憶