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2013年2月27日 (水)

‶日本人のしきたり〝シリーズその3“雛祭り”

図書館で文献をあさっていたら、『白洲家としきたり(※)』に出会いました。著者は白洲信哉氏(父方の祖父母に実業家の白洲次郎、随筆家の白洲正子、母方の祖父に文芸評論家の小林秀雄を持つ)です。今回は、このきらびやかな家系が生み出した格調高い名文に敬意を表して、原文をそのままご紹介いたします。

「雛祭り」は長い冬に別れを告げ、春を迎える区切りの風習
三月三日の雛祭りは、女の子の成長や幸せを祈って豪華な人形を飾る華やかな祭りである。雛祭りは「人日(じんじつ)」(1月7日)の次にやってくる*五節供(せっく)の一つで、「上巳(じょうし)の節供」と昔は呼んだ。
*五節供:1月7日「七草の節供」(人日)、3月3日「雛の節供」(上巳)、5月5日「菖蒲の節供」(端午)、7月7日「七夕祭り」(七夕)、9月9日「菊の節供」(重陽)

上巳とは月の最初の巳の日のこと。「節句」は本来「節供」と書いて、季節の変わり目にカミサマにお供えした食べ物のことである。古代中国においては、奇数が重なる日を忌み日とした「重日思想」により、上巳を忌み日と定め、青い草を踏み、酒を酌み交わして川に入り穢れを清めた。

この「踏青(とうせい)」という儀式が輸入され、平安時代にあった貴族の女の子が人形を使う「ひいな遊び」というお飯事(ままごと)と、自分の穢れや厄病を、草木や紙で作った人形に形代(かたしろと読み、身代わりのこと)として移し、海や川に流してお祓いをした「流し雛」という風習が習合し広まったという。

江戸時代になり、今のような形が定着していったが、毎年飾ったお人形を大切にしまって使いまわすようになったのは、明治以降のことである。
三月の初めは、農家にとってこれから田植えが始まり、過去一年の穢れを人形とともに捨て去る、という重要な目的があった。

また雛祭りを「桃の節供」とも呼ぶが、「古事記」によると桃の木は、伊邪那岐命(いざなみのみこと)が黄泉の国から逃げ帰るときに、追手から逃れるために使った仙木(せんぼく)であった。つまり、邪気を祓い春に向けて精進潔斎(しょうじんけっさい)する重要な行事なのである。

明治になって西欧の新しい暦に変更したとき、同じ日付のままこうした年中行事を移したのはやはり無理があった。昔は野外にお雛様を持ち出し、野遊びを楽しむ「雛の国見せ」という風習があったという。

しかし、三月初めでは日がな一日、野外で過ごすにはまだ肌寒く、桃にしても基本的には四月に咲く花である。節供する菱餅(ひしもち)を作るにしても、蓬(よもぎ)はまだ出ておらず、昔から蛤(はまぐり)の食べ納めといわれた雛祭り自体、一月のずれが生じているのだ。

※:『白洲家としきたり』(白洲信哉著/小学館/2010年12月刊/1100)

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