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2014年7月10日 (木)

五木寛之氏の“下山の思想”に基づく「自分のことは棚にあげろ」

今回は「木の葉ブログ」の400号です。これまで応援頂いた皆様に感謝申し上げます。さて、区切りの今回は、筆者が講師業を続けていくに際し、参考とさせて頂いた五木寛之氏『生きる事はおもしろい』の中から「棚にあげる覚悟」を紹介します。浅学非才のわが身は、この内容に勇気づけられて今日までやってまいりました。

「棚にあげる覚悟」の章「2」の全文紹介です(編集の都合で行替え省略あり)
「棚にあげて」という言い方がある。自分のことをまったくかえりみずに、他を批判したりする姿勢のことを言う。「自分のことは棚にあげて、よく言うよ」などと周囲からあきれられたりする人が少なくない。しかし、よく考えてみると、自分のことを棚にあげることなく他を批判したり、提言することがはたして可能だろうか。

自分自身を振り返ってみてもそうだ。これまで私なりに、いろいろな提言や批判を文章にしてきた。しかし、自分はどうか。本気で自分のことをふり返ってみると、もうひどいものだ。とやかく他人のことをあげつらうわけにはいかない。そうなると結局、何も言わずに黙りこんでいるしかないのである。

わが身をかえりみて、他人にあれこれ言える人は少ないはずだ。よくよく面(つら)の皮が厚いか、それとも無神経であるかのどちらかだろう。しかし、黙っているのも「腹ふくるるのわざ」だ。まして売文業者としては、やっていけない。あれこれ悩んだあげくに達した結論とは、「自分のことは棚にあげろ」という覚悟である。

自分ははたしてどうか、などとくよくよ考えているかぎり、発言などできるわけがない。周囲を見まわしても、自分のことは棚にあげて、他の批判や提言をくり返している人ばかりではないか。中途半端に迷いながらの発言など、誰も聞きたくないのだ。「自分のことは棚にあげて」思い切りよく断言してこそ人の耳目を集めるのである。

おのれをかえりみず偉そうなことばかり言う人間を、偽善者という。お坊ちゃまのくせに悪ぶってみせる人間を偽悪者という。
どちらもどちらだ。自分の本来の姿をさらしたところで、それは芸ではない。投げ銭をいただく資格はないのである。

小心なくせに大きなことを言う。強欲なくせに世捨て人みたいな顔をする。どちらも「自分のことは棚にあげる」覚悟がないのである。
自分。これほど仕末に負えない厄介なものがあろうか。それは「棚にあげて」おくしかないのだ。

※:『生きる事はおもしろい』(五木寛之著/東京書籍)

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