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2014年11月

2014年11月30日 (日)

察するコミュニケーションと表すコミュニケーション 「察しの文化」(10)

ウィスコンシン大学・宮本百合教授の「察するコミュニケーションと表すコミュニケーション」という研究プロジェクトに偶然Webで巡り合いました。日米の非言語コミュニケーションの違いが具体的な数値で示されており、とても説得力がありますので、「察しの文化」シリーズの最終回はこれを紹介して締めくくります。

米の文化人類学者T.ホールが唱えた「ハイ(ロー)コンテクスト文化」の検証
低コンテクスト(*)文化である欧米では、直接的で明確な言葉を用いた言語的コミュニケーションが多いのに対して、高コンテクスト文化である東洋では、間接的で周辺情報などの手がかりを用いた非言語的コミュニケーションが多いことが、文化人類学者Hallらによって示唆されてきた。
*コンテクストとは言語・共通の知識・体験・価値観などを指し、文脈とも訳される。

欧米人は非言語的コミュニケーションで「表し」、日本人は「察する」
自己を表現することが重要視されている欧米では、自らの意図や感情を他者対して明確に「表す」ことが非言語コミュニケーションの主な目的であると考えられる。一方、相手や周りに自分を合わせることが重視される日本では、他者の意図や気持ちを「察する」ことが非言語コミュニケーションの主な目的と考えられる。

ウィスコンシン大学の米国人学生と京都大学の日本人学生を対象に比較調査
すると、アメリカでは送り手が自らの感情・意図を表現できる身体的媒体(表情、振る舞い、ボディランゲージなど)が他の媒体より多く用いられているのに対し、日本では身体媒体も用いられていたものの、文脈的な媒体(場の雰囲気、体感、状況観察など)がアメリカより多く用いられていた。

日本では、場の雰囲気などの文脈的媒体で送り手の必要性を察する
これを調べると、アメリカでは約90%、日本では約50%の非言語的コミュニケーションにおいて、好意・怒り・悲しみなどの明確な感情が伝達されていたのに対して、日本の約40%、アメリカの約10%の非言語的コミュニケーションが、「時間がないので急いでいる」といった、送り手の必要性が伝達された場面であった。

従来、非言語的コミュニケーションは、欧米よりも東洋において多く用いられていると示唆されてきたが、本研究の結果に基づけば、非言語的コミュニケーションのどの側面に注目するかによって、欧米人の方が東洋人よりも非言語的コミュニケーションを多く用いる場合もあることが示唆されている。

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2014年11月27日 (木)

日本語を使いつづけると柔らかい人になる  「察しの文化」(9)

アメリカとフランスで長年留学や研究生活を送ったという豊富な異文化経験の持ち主の加藤恭子氏編著の「私は日本のここが好き!」(出窓社)に、ごく普通の留学生や、長期滞在の外国の人々が、自由に語った肯定的な日本観があります。日本人がふだん気づいていない日本の良さを、外から目線で教えられるところが多々ありました。

日本化されると、にこやかに謝ってしまう
横浜で生まれたドロシー・プリントさんの証言。日本のどこが好きかと聞かれれば、第一に人間です。朗らかで、親切で、にこにこした顔が多い。満員電車の中でさえも、穏やかな顔をしているように私には思えます。他の国ではもっとけわしい、しかめ面が多いですよ。日本化された私は、英国でにこやかに謝り誤解されたこともあります。

以下は、神戸にあるコミュニカ学院院長の奥田純子氏が留学生たちから集めたものからの抜粋です。
あいづち・うなずきながら聞く習慣(韓国・台湾の男女)
なんでも賛成して、自分の意見がないのかと両親に言われた。相手の話をうなずきながら、聞く習慣が身についていた。あいづちを打たない相手には、母親の会話でも聞いてる? と言ってしまう。うなずくことは、相手への気遣い、やさしさだと思う。

人の話を聞くようになった・自分だけ話さない(フランスの女性)
一時帰国したとき、友人から静かになった(ペラペラ話さなくなった)と言われた。相手の話をよく聞くようになったことに気付いた。フランス語で会話していると話があちこち飛んで、疲れる。断定しなくなった。
とりあえず(韓国の男性)
物事は計画を立て、見通しをつけてからやるのが正しいと教えられたし、そうやってきた。まずやってみて、その経験から何かを始めることはなかったが、日本語の「とりあえず」という言葉に出会ってから、「とりあえず」始めることの大切さを知り、自分の社会とのかかわり方や感じ方、行動が変わった。(例:とりあえずビール)

食器を片づける(台湾の女性)
セルフスタイルのレストランで、食後にトレーで食器を返却口まで返した時、母に日本に行ってメイドになって帰ってきたと言われた。台湾は協力したり次のお客のことを考えたりしない文化だと思った。日本のスタイルのほうが気持ちがいい。
日本に帰るとホッとする(国籍不特定)
言葉(声調、音声、物言い)の柔らかさがある。優しい。直接的に言わない。人を押しのけて競争することがない。始まりの時間は厳しいが、終わりの時間は緩やか。

参考文献:『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』(鈴木孝夫著/新潮社)

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2014年11月23日 (日)

日本語を話すたび、礼儀正しくなったと感じた米国人 「察しの文化」(8)

米国陸軍日本語学校の第一期生として日本語の特訓をうけ、戦後は来日して占領業務に携わると同時に、日本の社会や日本人を人類学的な立場から研究したアメリカの人類学者でハーバード・パッシンという人がいました。この方が書いた『米陸軍日本語学校――日本との出会い』の中に次の文章があります。

「外国語を学ぶということは、新しい情報体系を吸収することだけではなく、自我を大きく変貌される複雑な過程でもある。自我が実質的に再構成されるわけである。しかもこの過程は、心理領域がからむだけでなく、生理領域も関連を持つように思われる。私はいくつもの言語を話すが、ある言語からある言語へと使う言葉を変換すると、自分が人格も身振りも動作もそして頭脳構造の枠組みまでも、それに合わせて姿を変えていくのがわかる。少なくとも私にはそう思えるのである。」

話すことばを変えると、その国の人と同じ振る舞いや感覚を持つようになる
「フランス語を話すと、実際にはそういうことはないかもしれないが、自分が頭脳明晰、論争好きで、説得上手になったように思え、同時に口先ばかりの逆説的で意表をつく人間になったような気になる。フランス語はどちらかというと、“口説き”に力量を発揮する言語のようである。」

スペイン語には、男を闘牛士に仕立て上げる要素がありそう
「しかし、スペイン語に切り替えると、また別人のようになる。正しいリズム、イントネーションを保とうとして、身振りはメキシコ人そのものになってしまう。内に力がみなぎり、自分が“男の中の男”になったような錯覚に陥る。かなり高圧的、独断的になるが、その反面詩人にもなる。俗っぽくもなるし、快楽的になる場合もある。」

言葉を切り替えると、心までが位置を変えてしまう
「ところが、日本語を話すたびに、自分はこんなにも礼儀正しい人間になれるものかと、自分で驚いてしまう。こういうことは、英語を話すときは一度も感じたことはない。言葉が異なると、別人になった意識を持つのである。人にも異なった反応をするし、同じ事物でもいささか違ったように受け取ることもよくあります。」

●「イタリア人は縛られると話せない」ということが以前読んだ本の中に書いてあり、かなりの誇張がある文章と思っていましたが、ハーバード・パッシンの著書によって、このようなことが実際にありそうに思えてきました。そういえば、あまり得意でない英語で友人と会話するブログ筆者も、確かに普段の自分とは違いますものね。

参考文献:『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』(鈴木孝夫著/新潮社)

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2014年11月20日 (木)

富士山「世界文化遺産」登録に関する3つの視点 「察しの文化」(7)

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2013年6月26日、カンボジアの首都プノンペンで開催した世界遺産委員会で、日本政府が推薦した「富士山」(山梨、静岡両県)を世界 文化遺産に登録しました。この壮挙に対して、日本人の3つの視点を見逃してはならないと指摘する識者(前文化庁長官の近藤誠一氏)がいらっしゃいます。

(1)富士山を「自然遺産」ではなく「文化遺産」にした“日本的感性”
富士山は山ですから、普通なら自然が美しいとか、地質学的に珍しくて価値があるなどの理由で自然遺産として登録されるのに、なんと世界文化遺産として登録が認められました。日本人の持つ豊かな季節感や、生活と結びついた自然感、そして細やかな美意識と感性が国際的に高く評価されたためなのだそうです。

(2)白黒をはっきりさせない“曖昧さを再評価”すべき
近藤氏は、日本人の持っている〈白黒をはっきりさせないで曖昧なままに飲み込む能力〉を再評価すべきだとおっしゃっています。「YES」「NO」が不明瞭な日本人の意思表示は、グローバル社会ではマイナスとの評価が一般的なようですが、正解が分かりずらい世の中では、日本人のこの感覚が大事なのだと、次のように語られています。

「アメリカなどでは好きか嫌いか、善か悪かという発想が強い。ハリウッド映画を見ていても善悪がはっきりしていますが、日本の文楽や能を見ていると違います。みんなが義理と人情の狭間で、正解がない問題に苦労しています。現実には白黒、善悪で割り切れないことがあるという感覚が日本の文化、芸術に表れていると思います」

(3)見えないもの“空白に意味を認める”感性
日本人が取り戻すべき世界に誇れる資質として、近藤氏があげられている第三の点は空白に意義を認める感性です。欧米は科学で説明できる、あるいは目に見えて、手で触れるものしかなかなか評価しない。例えば、墨絵の余白には何も描かれていませんから、欧米人から見れば書き残しに見えるかもしれません。

物理的に離れているという理由から初めは分離除外されていた三保の松原は、文化的には一体で、日本人の心の中では両者は目に見えない糸で繋がっているのだという主張が通り、富士山の一部と認められました。こうした感覚への理解が進めば、今日の文明の行き詰まりを打開するために、日本が貢献できる可能性もあるとのお考えです。

※参考文献『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』(鈴木孝夫著/新潮社)

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2014年11月16日 (日)

道端にたたずむ少女の心を一瞬で読んだトラック運転手 「察しの文化」(6)

『産経新聞』の投書欄「ひこばえ倶楽部」に「チョウを助けたおじさんに感謝」という感動的な内容が掲載されていました(2014年6月30日)。井筒美海(みう)さんという10歳の小学生が書いたものですが、日本人の生き物に対する共感的な感情が溢れている話なので、紹介したいと思います。

車道で羽をばたつかせるが飛び立てないアゲハチョウにトラックが迫る!
下校途中の美海さんは、車道の真ん中で苦しそうに羽をばたつかせているアゲハチョウを見つけました。「『ケガをして飛べないのかな』と思っていると、そこにトラックが走ってきました。『あぶない』と思って見ていると、チョウの手前でトラックは止まり、お父さんより少し若い感じのおじさんが運転席から降りてきました。

おじさんは道端に立っていた私と車道のチョウに気付き、後続のタクシーがいたのにもかかわらず車を止めて、チョウの羽をつまんで、道路の端にそっと置き助けてくれたのです。おじさんは私の顔をみて笑いながら走り去って行きました。私は感謝しました。チョウもきっとうれしかったと思います。」

この少女の投書は「怖くて動けなかった私ですが、これからは少しでも勇気を出し、助けられるようになれたらいいなと思いました。」で結ばれています。それなりの速度で走る運転手さんに、路上のチョウが見えたとは思えません。彼は、道端にたたずむ少女の様子から、とっさに彼女の心の中にある思いを察したのだと思われます。
※投書内容は参考文献に紹介されたものに、投書原文から一部加筆しています。

日本人はあらゆる生き物に対する共感をまだ失っていない 
生き物に対する共感は以下の三つの俳句に色濃く表れていると参考文献の筆者は…
(1) 朝顔に 釣瓶(つるべ)取られて もらひ水    加賀千代女
(2)やれ打つな 蠅が手を擦(す)る 足を擦る   小林一茶
(3)雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る     小林一茶

(1)一晩かかって必死に蔓を釣瓶にからませた朝顔をむげに傷つけるのは忍びないと、隣家に水を貰いに行くこの気持ちは、現在の私たちにも共感できる自然感では…。
(2)ハエが命乞いをしているのだから助けてやれよという、まさに生き物すべてに対する惻隠(そくいん)の情は、日本人の多くがまだ理解できる感情なのだと…。
(3)生まれたばかりの怖いもの知らずの小雀が、馬をなかなかよける気配のないのを、はらはらしながら見守る一茶の気持ちは、現代の日本人にも残っているのでは…。

※参考文献『日本の感性が世界を変える』(鈴木孝夫著/新潮社)

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2014年11月13日 (木)

相手の気持ちを察しながら「相槌」をどう使い分けるか 「察しの文化」(5)

複雑に絡む糸のような人間関係を一本一本ほぐしていくことで、日本人がどんな場合にどんな風にことばを使い分け、待遇表現を意識しているのかが見えてきます。日本語はこうした複雑な人間関係の中で、相手と自分との糸のかけ違いがないように気を配りながら会話がなされてきました。

その重要な部分は「文末の省略(文章を最後まで言わずに、最後の部分は相手に類推してもらって文章を完結するという省略の形など)」、
「話しかけの言葉(「あのう」など」、
また以下に記す「相槌の打ち方」などによるものだと言えます。

相槌の種類(一口に相槌と言っても、その意味・機能は実に多様)
(1) 受諾・・・「ええ(いいですよ)」「はい(わかりました)」
(2) 同意・・・「そうそう(おっしゃる通りですよ)」「うん(そうだね)」
(3) 誘導・・・「へえ、それで(どうなったの)(これからどうするお積りですか)」(アクセントは上昇)
(4) 疑問・・・「うーん(本当にそうでしょうか)」
(5) 助勢・・・「まったく(そうなんですよね)」
(6) 感嘆・・・「あらっ(女性)、へえっ(ほんとうですか)、うそっ(若者言葉)」
(7) 否定・・・「いやっ(違いますね)、ううん(そんなこと考えてませんよ)」
(8) 沈黙・・・間を置くことが、疑問、否定の役割を果たすことが多い。
(9) 展開・・・「それで(どうなりましたか)、それから(どうしたんですか)」(アクセントは上昇)
(10) 終結・・・「それはそれは(大変でしたね)(良かったではありませんか)」

これら多様なニュアンスを持った相槌は常に相手の気持ちを察しながら行われます。
日本語による会話では、他の言語に比べて特に相槌の回数が多いそうです。相槌を待遇関係という面で見ると、低位の者が高位の者に対して相槌を打つ回数が多いことが、テレビドラマ、小説、漫画の分析などから見てとれます。

短い言葉にさまざまな機能が込められているという点で、相槌は他者との関係がいかに交わされているかを見、他者と自己との関係をどうとらえているかを示す鍵ともなります。相手との関係が密接になればなるほど、相槌の回数も多くなるという観察もあり、興味深いところです。

※:参考文献:『世界のなかの日本型システム』(濱口惠俊編著/新曜社)

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2014年11月 9日 (日)

「察し用法」のひとつ「あのう」の便利な多様性 「察しの文化」(4)

「察しの文化」シリーズを書くに際して、参考になる文献を探しましたが、不思議?なことに容易に見つかりません。ようやくたどり着いたのが『世界のなかの日本型システム(※1)』で、その19章に「日本語表現を通して見た『察しの文化』/佐々木瑞枝著」がありました。その中から、なるほどと頷けたものを2回で紹介いたします。

「相手の気持ちを察する」には、その背後に構築された人間関係が必要
その人間関係を著者は、世代の違い、「長幼関係」と「恩恵関係」(下段で紹介)、「親疎関係」と「内外関係」に分け、親疎と内外について次のように解説しています。実家の別棟に10年住む長男の嫁は、ある日嫁いだ夫の妹が実家に遊びに来たとき、姑の言葉遣いから、自分はいまだに「疎」であり「外」なのだと感ずることがあるのだと。

「長幼関係」を優先し「恩恵関係」を無視するとギャップが生ずる
日本人が名刺好きなのは、名刺が言葉の「待遇」を決めるため。ですが、待遇概念を勘違いすると人間関係のギャップが生じます。これを筆者は、若い教師を社会的地位のある生徒の父親が長幼関係から「君」と呼び、生徒を教える恩恵関係にある教師の反発を買うシーンで解説し、父親の言葉遣いの誤りを指摘しています。

「君」の代わりに「あのう」と呼びかけたらどうなるだろうか
呼びかけに際してよく使われる「あのう」には、人間関係をよくする布石としての役割があり、「察し用法」の1つとされます。前出の父親が、「あのう、学校の授業の進み具合ですが…」と語りかければ、「言いにくいことだが思い切って言っておこう」といった遠慮の気持ちが「あのう」に込められていると理解されるとの解釈です。

「あのう」には、呼びかけのほかにもいくつかの機能がある
気持ちを察しつつ話を進めると、いくつものバリエーションに変化する「あのう」。
「あのう、明日は都合が悪くて・・・」(断る場合に使う)
「あのう、○○大学の先生でいらっしゃいますか」(たずねる)
「この論文はですね。あのう、まだ完成論文ではありませんので」(つなぎ)

話しかける場合に何と声をかけるかは日本語には非常に重要
これらの「あのう」はどれも話し相手が「内外関係」で言えば「外」の人、「親疎関係」で言えば「疎」の人、「先後関係」における「先」の人、利害関係のある人、恩恵を感じている人に向けられるものであり、家族に向かって使われることはまずない。また、独り語で「あのう」が使われることは決してありません。

参考文献:『世界のなかの日本型システム』(濱口惠俊編著/新曜社)

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2014年11月 6日 (木)

訪問先で「今ちょっと出ておりますが…」と言われたら 「察しの文化」(3)

前回に引き続き、金田一家親子の「春彦・秀穂 ニホンゴ対談」からの抜粋です。
今回のテーマは、相手が外出中に訪問して、留守番をしている人から「今ちょっと出ておりますが…」と応対されたとき、日本人だったらどのように対応すべきかというお話です。一見簡単そうで、実はとても奥行きのある内容となっています。

秀穂 それにしても、「察し」、というのは、深いですね。
春彦 芳賀綏(やすし)さんが言われたように、日本語には相手の気持ちを覗き込むことを表わす語彙が多いです。
察する、推し量る、勘ぐる、見定める、見透かす、気を廻す、見抜く、見破る、見て取る……。
一人の日本人が外出している時に、誰かが訪問してきたとします。留守をしていたものはどう言うでしょう。「今ちょっと出ておりますが、もうそろそろ帰ってまいりますから、しばらくお待ちくださいませんか」。
考えてみるとずい分不親切なものの言い方で、「ちょっと出ている」と言って、何分ぐらい出ているのかよく分からない。「そろそろ帰ってくる」「しばらくお待ちください」と言って、これまた文字の上だけからは見当がつかない。が、そのときに、「しばらくとおっしゃいますが、何分ぐらいですか」と質問するお客がいたら、それは頭の悪い軽蔑されるべき人間です。(中略)

「しばらくお待ちを」と言われたお客は、日本人ならばここで考えなければならない。中へあがって帰りを待つべきか。もう一度その辺りを散歩して再び訪問すべきか。それともはっきり諦めて、またの日を期すべきか。
秀穂 それはまた、難しそうですね。

春彦 それを決定する資料は、まず留守番の人の表情、身振りです。当惑しているか、歓迎している様子か。またその言葉の調子が急速ならば、すぐ帰ってくるだろうし、ゆっくり間延びした調子なら、帰りは遅いと見るべきか。それから、その外出している人のふだんの行状、その辺りの散らかり具合、それから時期、あらゆることを考えにいれて、自分のすべき行動を決定することが、日本人の生活でした。

●上段の太字部分は、9つあるとされる非言語メディア*に該当するところです。表情、身振り、様子は「動作」、言葉の調子は「周辺言語」「沈黙」、時期は「時間」に当てはまるでしょう。金田一春彦氏は比類なき言語学者でありながら、これらの非言語情報を読み取れなければ、察しの国の文化人とはいえないと指摘していらっしゃるのですね。
*他の非言語メディアは「人体」「目」「身体接触」「対人的空間」「色彩」。

参考文献:『『金田一家、日本語百年のひみつ』(金田一秀穂著/朝日新聞出版)

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2014年11月 2日 (日)

金田一家親子の「春彦・秀穂 ニホンゴ対談」より 「察しの文化」(2)

「よろしく」という表現に関して、息子の秀穂氏が父親の春彦氏こう語りかけます。
「新学期に、以前僕が教えた学生から、『金田一先生によろしく』といわれて、どうしたらいいか分からないと、ある外国人教師が私に言いました」。以下はそのやりとりですが、辞書編纂で高名な春彦氏の博学ぶりには改めて驚かされます。

春彦 邦楽学者の故・吉川英史さんの『邦楽と人生』に面白い一節があります。われわれはよく「ではお母さんによろしくね」などという言葉を使います。今の人はそういわれると、家へ帰ってから、「おばさんはお母さんによろしくって言ってたよ」などと伝える。伝えられたほうもそれで別に異としないが、本来からいうとそれは間違っているという指摘です。
秀穂 へえ。
春彦 考えてみると、まことにそのとおりで、「よろしく」とは「よろしく伝えてくれ」の意味で、おばさんなる人は、訪ねてきた子どもに、帰ったら私はお母さんのことは忘れてはいない。私の代わりに何とか私の気持ちが伝わるようにあなたから伝えてほしい、とい言ったのであって、どのように伝えるかは、一切その子どもに委託したのです。
秀穂 はあ。するとその「よろしく」は、子どもがよろしいように伝えろ、という意味なわけですか。お母さんが、よい状態であるかという意味じゃないわけですね。ふーん。なるほど。

日本人は子どものときから勘を働かすように訓練されている
春彦 だから子どもは家に帰ったら、お母さんに対して、「おばさんはお母さんのからだのことを心配していたよ」でも、「おばさんはお母さんのことをよくやる偉い人だって感心していたよ」でも、あるいは「おばさんはいつ見てもあなたのお母さんは若いわねえと言っていたよ」でも、そのほか、おばさんがお母さんに対して言ったこと、あるいは直接会ったら言いそうなこと、なんでも構わないのだが、お母さんにおばさんの好意が伝わるようなことを言うべきなのです。
この場合、おばさんなる人は、その子どもに自分の気持ちを具体的に説明せず、察してくれるように要求しているわけで日本人は子どものときから勘を働かすように訓練されていることになります。

秀穂 そりゃ大変だ。正しく察するためには、ふだんからよく観察してなければならなかったんでしょうね。そういう付き合いの深さのようなものが、だんだん薄れてきている、出来なくなっているのが現代の日本なのかもしれません。
でも、本来そのような意味だったものが、挨拶ことばとして定型化されて、元の意味が失われてしまうことはよくあることですね。

参考文献:『『金田一家、日本語百年のひみつ』(金田一秀穂著/朝日新聞出版)

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