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2014年11月23日 (日)

日本語を話すたび、礼儀正しくなったと感じた米国人 「察しの文化」(8)

米国陸軍日本語学校の第一期生として日本語の特訓をうけ、戦後は来日して占領業務に携わると同時に、日本の社会や日本人を人類学的な立場から研究したアメリカの人類学者でハーバード・パッシンという人がいました。この方が書いた『米陸軍日本語学校――日本との出会い』の中に次の文章があります。

「外国語を学ぶということは、新しい情報体系を吸収することだけではなく、自我を大きく変貌される複雑な過程でもある。自我が実質的に再構成されるわけである。しかもこの過程は、心理領域がからむだけでなく、生理領域も関連を持つように思われる。私はいくつもの言語を話すが、ある言語からある言語へと使う言葉を変換すると、自分が人格も身振りも動作もそして頭脳構造の枠組みまでも、それに合わせて姿を変えていくのがわかる。少なくとも私にはそう思えるのである。」

話すことばを変えると、その国の人と同じ振る舞いや感覚を持つようになる
「フランス語を話すと、実際にはそういうことはないかもしれないが、自分が頭脳明晰、論争好きで、説得上手になったように思え、同時に口先ばかりの逆説的で意表をつく人間になったような気になる。フランス語はどちらかというと、“口説き”に力量を発揮する言語のようである。」

スペイン語には、男を闘牛士に仕立て上げる要素がありそう
「しかし、スペイン語に切り替えると、また別人のようになる。正しいリズム、イントネーションを保とうとして、身振りはメキシコ人そのものになってしまう。内に力がみなぎり、自分が“男の中の男”になったような錯覚に陥る。かなり高圧的、独断的になるが、その反面詩人にもなる。俗っぽくもなるし、快楽的になる場合もある。」

言葉を切り替えると、心までが位置を変えてしまう
「ところが、日本語を話すたびに、自分はこんなにも礼儀正しい人間になれるものかと、自分で驚いてしまう。こういうことは、英語を話すときは一度も感じたことはない。言葉が異なると、別人になった意識を持つのである。人にも異なった反応をするし、同じ事物でもいささか違ったように受け取ることもよくあります。」

●「イタリア人は縛られると話せない」ということが以前読んだ本の中に書いてあり、かなりの誇張がある文章と思っていましたが、ハーバード・パッシンの著書によって、このようなことが実際にありそうに思えてきました。そういえば、あまり得意でない英語で友人と会話するブログ筆者も、確かに普段の自分とは違いますものね。

参考文献:『日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論』(鈴木孝夫著/新潮社)

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