白州正子氏に学ぶ「智慧というもの」(1)
「襟を正して新しい年の第一歩を踏み出そうとするとき、凛としたその姿勢、生きざまに少しでも近づきたいとの思いがあるからでしょうか、年明けには必ず白州正子さんに思いを馳せます」と前年1月5日に書きました。その内容は「新年」と「初心忘るべからず」でしたが、本年は「智慧というもの」についてです。
智慧は、百科事典の中に決して発見出来る物ではありません
仏様には光背というものがありますが、智慧もその様に、身からあふれて外にほとばしる光ともいうべき後光のようなものであって、それ等はすべて頭脳明晰とか利巧とかいう事と、何の関係もないものです。それにつき面白い話をおもいだします。それはトルストイの書いたものの中にあるお話です。
「昔ある所に一人の男が居て、その者は機械についての知識は皆無であったが、水車を動かすことが非常に上手だったので幸せに暮らしていた。ある日ふとした事から構造に不審を抱いて、その回転する理由を考え始めた。
その結果、水車の構造のことは全部わかって、更に『水車を知るにはまず河水を、よく粉をつくるには先ず水を』と云って、水流、並びに河水に至るまでの研究をことごとくしつくし、尚もその考察に没頭した。しかし、その時分にはこの男はとっくの昔に、水車のことなど忘れてしまっていた」
水車を動かすものが智慧であって、水車の構造及び水流その他は知識
智慧は総合力であり、知識は分析的であるとも云えます。この男の目指した所は、どこまでも真面目であり、熱心であり、自分の仕事に忠実でもあります。その点、文句をさしはさむ一つの余地もありません。それにも関わらず水車は動かないのです。
よい粉はおろか、悪い粉の一粒も製造していないのです。これでは何になりましょう。しかし、よくよく思えば、私達もこの男の様に、物がわり切れ、理解出来ることの快感に、ともすれば、水車の存在という、根本的なものを忘れがちではないでしょうか。
水車の男が機械とか水流とかの研究をして知識を得た、極くあたりまえの常識では、それを進歩と名づけます。たとえば人の生活程度が高くなったり、お台所が電化したり、一般的に文化の水準が高くなったりそういう事をもって進歩とし、又幸福であるとするのは、普通の考え方です。誰も異存はありますまい。
しかし、此処において、人間の人間たる所以が猛然と頭をもたげます、成程生活程度は高くなった、が、「人間」という物が果たして進歩したか、しないか。その疑問は、少し考えてみるならば必ずおこって来るべきです。
参考文献:『白州正子全集(第一巻)』(白州正子著/新潮社)
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