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2015年7月24日 (金)

村上春樹氏のクルマを通しての体験的東西文明論  文明と文化(9-2)

「文明と文化(9-1)」続編
デザインの専門的なことは僕にはよくわからないけど、黄金分割なんていうものがそれほど絶対的な価値を持っているとは思えない。それに教育制度が完備しているのは何もヨーロッパだけではない。クーエンハイム会長の話を聞いていると、欧米以外の国は、あるいは白色人種以外の人間は、伝統もなければ教育もない野蛮国、野蛮人ということになってしまいそうである。

こういう本音が出た発言を聞くと、今ネオナチが台頭しているのもむべなるかなという気がしてくる。僕だけではなくて、アメリカ人だってこういう黄禍論的なプロパガンダに触れると、ちょっとひっかかるところがあるんじゃないかという気がする。
ひとつの国の中に様々な種類の人種や文明を抱え込みつつ、なんとかうまくやっていこうと努力している――少なくともそういう建前でやっている――この国の人々の感覚には、このBMW会長の傲慢な発言はやはり馴染まないだろう。

確かに車を発明したのもヨーロッパ人だし、したがってその造形についても彼らの方に一日の長はあることもたしかである。日本の車は所詮物真似だとクーエンハイム会長が言いたい気持ちもよくわかる。それはある意味では真実だと思う。しかしそこに見受けられるある種の不寛容な選良性は、その鮮明な階級意識は、アメリカの風土とは明らかに異質なものである。

僕の運転しているフォルクスワーゲンはそれほど偉そうな車ではないけれど、それでもアメリカで運転していると、生活感覚と運転感覚とのあいだに、何かが1枚はさまったようなぎこちなさをふと感じてしまうことがある。「ちょっと違うんだよな」というところがある。

そう考えると、日本の車にはオリジナリティーや哲学や喜びがないと言われながらも、日本の自動車メーカーは「洗練された大きなカローラ」的なるものを、下から上にと積み上げていくことによって、これまでになかった新しいイデアを――メルセデス・ベンツ的なイデアに拮抗するイデアを――少しずつ創造しつつあるのではないかという気さえしてくる。
でもそういう新しい価値基準が、車を運転していてもあまり面白くない日本という土壌から出てくるのは不思議といえば不思議な話である。となると、世界はこれからだんだんグローバルに退屈で面白くない場所になってくのだろうか? あるいは逆に世界があまり退屈で面白くない場所になりつつあるからこそ、日本的なるものが世界的に評価されることになるのだろうか?(「黄金分割とトヨタ・カローラ」より)

参考文献:『やがて哀しき外国語』(村上春樹著/講談社)

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