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2015年7月13日 (月)

ドラッカー著『すでに起こった未来』より、「日本画にみる日本」続編 2015年7月12日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(6)」補足資料 

日本は、概念よりもむしろ知覚の分野に創造的な才能がある
 マーシャル・マクルーハン(1911~80年)は、電子メディアが世界の見方や解釈の仕方を変え、我々を分析的に考えることから知覚的に見るように変えたと宣言した。
 しかし、西洋における知覚的なものの見方の存在についてよく考えてみるならば、日本画への理解によって類推されるように、そのような移行はすでにかなり前に起こっており、電子技術にはかかわりがないという結論に達する。

 むしろ逆に、西洋において電子技術が準備され、それを受け入れる用意ができたのは、すでに西洋でも、伝統的な描写と分析から、日本人が昔から持っていた構図と形態の知覚への移行がおこなわれていたからこそであるとも考えられる。

 西洋近代美術史の大家ロバート・ローゼンブルムは、その著『近代絵画とロマン派の伝統――フィリードリッヒからロスコまで』において、近代西洋絵画は、ヨーロッパ北部、主としてドイツ北部の19世紀の画家、描写から構図への移行を成し遂げたキャスパー・デイヴィッド・フリードリッヒ(1774~1840年)らにその源があると言っている。

 しかし、これは日本で、すでにはるか昔に起こっていることである。分析的概念に対置するものとしての知覚、描写に対する構図、幾何に対する位相、分析に対する形態は、実に10世紀以降の日本画における継続的な特性である(中略)。

  中世における西洋最大の偉業は、トマス・アクィナス(1225~74年)の『神学大全』であり、これは人類の歴史の中でも最高の概念的・分析的な著作である。これに対して、日本の中世にあたる11世紀の最も誇るべき偉業は、宮中の男女、愛と病と死に関する婉曲的な描写からなる世界最高の小説、紫式部の『源氏物語』である。

 日本の最高の劇作家、近松門左衛門は、カメラやスクリーンこそ使わなかったが、その文学と歌舞伎は高度に映画的である。台詞と同じように、歌・踊り・衣装・音楽
があり、登場人物は、何を言うかよりも、どう見えるかによって性格づけされる。誰も近松の台詞を引用しない。しかし、場面を忘れるものはいない。
近松は劇作家ではなく脚本家である。彼の歌舞伎は、映画のための道具は何一つ使わずに、映画の技法を発明してしまっている。役者が不動のかたちをとる見得は、まさに映画のクローズアップである。
 
 日本の近代社会の成立と経済活動の発展の根底には、日本の伝統における知覚の能力がある。これによって日本は、外国である西洋の制度や製品の本質と形態を把握し、それらを再構成することができた。日本画から見た日本について言えるもっとも重要なことは、日本は知覚的であるということである。
(初出「ソング・オブ・ザ・ブラッシュ」、1979年)

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