カフェを経営する元ミュージシャンがコーヒーの文明と文化について語る 2015年7月5日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(4)」補足資料
「文明と文化(4)」で取り上げた司馬さんの『アメリカ素描』のこの個所は、さまざまな書籍に引用されています。ここでは、「シリーズ『食』の文化と文明」のタイトルにも惹かれ『おいしい珈琲をいかがですか』(寺澤武著/三嶺書房)を取り上げます。
なお、著者はダニー飯田とパラダイス・キング、山崎唯ピアノ・トリオ、和田弘とマヒナスターズなどで活躍した、元ミュージシャンだそうです。
さて、「コーヒーと文化」ということを考える時、私は次のような文中の一節を大変興味深く読んだのです。それは、
「ここで、定義を設けておきたい。文明は“誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの”をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。」(以下略)司馬遼太郎著『アメリカ素描』より
とあるように、普遍的な意味で「コーヒー」を文明に例えるならば、「抽出」の作業、とくに単純な手作業となる「フィルター・ドリップ抽出」には、文明では及ぼし得ない奥の深さを感じ、その素朴な作業の中には“心”が存在し、それが香味にもつながると考えられるのです。
つまり「抽出しさえすればよいという合理的な考え方では“おいしい珈琲”の香味を得ることは望めないということであり、多分に日本的文化の要素が色濃いこの手作業による抽出がより“おいしい珈琲”の香味を得る条件を備えている、と考えるのは私の偏見なのでしょうか……。
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