専門家による多角度的「文明」と「文化」論 2015年7月9日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(5)」補足資料(1)
前回の参考文献『本の底力』に――「文明」と「文化」――と題したコラムがあり、そこには専門家の「文明・文化観」が幅広く蒐集されています。きわめて貴重な資料と思われますので、ここでその一部を紹介します。
「文明」と「文化」。英語でいえば「civilization」と「culture」。しかしその定義や解釈、使い分けはさまざまだ。とりわけ文化の場合、英語のなかで三本の指に数えられるほど複雑な単語だともされる。
先人・先賢の「文明・文化観」をいくつか見てみよう。
世界的なベストセラー『文明の衝突』の中で、著者サミュエル・ハンチントンは「文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。文明社会が原始社会と異なるのは、人びとが定住して都市を構成し、読み書きができるからだった。文明化することは善であり、未開の状態にとどまることは悪だった」と述べている。
文化とは半ば意識下にまで根を下ろした生活様式であり、身体的に習熟されて習慣化した秩序を意味している。これにたいして、文明は完全に意識化された生活様式であり、両者は連続的なグレーゾーンをはさみながら、しかしはっきりと分極している。
イギリスの議会制度や機械工業は文明であるが、議員の演説の文体や、機械を操る微妙な身体的ノウハウは文化である。西欧の音階とリズムの体系は文明であるが、ここの演奏者の身についたスタイル、作曲家の体臭にも似た個性は文化に他ならない(『文明の構図』)。
「文明は、当初から限られた地域の枠を超えて広がる性向を持っていた。普遍性への志向は文明の大きな特質なのである。……それに対して……風土的条件と歴史の積み重ねによって形成された習俗、価値観、行動様式などの総体およびその所産を『文化』と呼ぶのである」(高階秀爾『本の遠近法』)。
「文化と文明は対極である。……平板に表現すれば、量と質の世界といえようか。文明は、効率であるとか、GNPであるとか、量的に換算できうるものであるが、文化には三次元の尺度では測定できない。時間と空間を通過してしまう。別の次元の価値なのである。……文化には……美感あり、メンタリティーあり、知性あり、徳性がある」(篠田雄次郎『今こそ日本人は「文化」に戻ろう』)。
「手に触れることのできる、目で見ることのできるような文明の世界と、心で感じる世界、他人にたいしてうまく説明のできない世界というものがあり、まさにそれが文化の世界」(橋口収『近代の座標軸を求めて』)。
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