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2015年7月

2015年7月30日 (木)

「スキルを身につけるのは、自分の志を達成するため」 ハーバードに学ぶ(1)

『ハーバードはなぜ仕事術を教えないのか(※1)』という本を手にしてカバーを広げると、「スキルを身につけるのは、自分の志を達成するためです。スキルアップそのものが目標になってはいけないのです」という、ロバート・スティーブン・カプラン教授の言葉が飛び込んできました。今回から、一気読みの成果のお披露目です。

ハーバードで教えるのは、一流のリーダーになるための「リーダーシップ」
分析スキル、会計スキル、財務スキル、英語力、プレゼンテーション力。こうしたスキルは若いうちに磨いておくに越したことはありません。しかし、全部、身につけたからといって、出世するわけでもありませんし、トップになれるわけでもありません。スキルアップばかりに夢中になるのは本末転倒なのです。

ハーバード大学経営大学院(ハーバードビジネススクール)では、一切、仕事術を教えません。徹底的に叩き込むのが、リーダーとしての思考様式と行動様式です。特に「なぜ、リーダーはそういう行動をとらなくてはならないのか」、その理由の部分を強調して教えます。「なぜ」に納得すれば自分から行動できるようになるからです。

なぜ、プレゼンテーション資料のフォントをそろえるのか?
「プレゼン資料のフォントはそろえる」ではなく、「プレゼンされる側の立場にたって、何が知りたいのか、どんな資料だったらわかりやすいかを考え、資料を作成せよ」と教えます。さらには、もっと踏み込んで、「プレゼンされる側にとって、本当にその資料が必要なのか」「資料より試作品の方が効果的ではないか考慮せよ」とも教えます。

本質を1つ学べば、すべてに応用が利きます。メールを書く時は、「読む人の立場になって書こう」、会議では「部下が知りたいことを簡潔に伝えよう」。そこを押さえていれば、何をやればいいか、おのずとわかってきます。このような本質を知っているからこそ、ハーバードの卒業生は一流のリーダーとして高く評価されるのです。

ただし、ハーバードを出たからといって誰でも成功しているわけではない
ハーバード大学卒業生の10年後の追跡調査がありますので、ご参考まで(※2)。
① 卒業生の3%は飛びぬけて豊かな生活を送っている。⇔多くの卒業生の10倍もの収入がある。②卒業生の10%は余裕のある生活を送っている。⇔普通の卒業生の3倍の収入がある。③卒業生の87%は普通の生活を送っている。

①の該当者は具体的な目標を持ち、それを紙に書いていたそうです。②の該当者は、いくつかの目標を漫然と持っており、ときどき思い出したように目標を心に描いていたそうです。③の該当者はほとんど目標という目標は持っていなかったそうです。

※1:『ハーバードはなぜ仕事術を教えないのか』(佐藤智恵著/日経BP社)
※2:『自分力の鍛え方』(朝倉匠子著/ソーテック社)

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2015年7月28日 (火)

食事だけは個人主義というのが日本の伝統であったらしい 2015年7月26・27日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(10)」補足資料

直系家族で育った日本人には食事の仕方に特徴があります。他の多くが集団主義傾向が強いのに対し、食事だけが個人主義だというのです。その反対に、個人主義的なアメリカ人たちの食事の仕方は、会話を楽しみながら一緒に食べ終えるという協調性がみられるというのです。このような興味深いお話を下記参考文献から。

日本人はお箸に合う料理を好む。供託される料理が、すでに食べやすい大きさに切ってあれば、大皿から取り分けることもなく、はじめから銘々のお皿に盛られる。そして箱庭のように、こまごました料理がお膳の中に収められているのが日本料理であった。幕の内弁当は、その象徴的なものであろう。

初めから多くの料理を見せてしまう日本料理のような配膳を専門家は「空間展開」とよぶ。視覚にうったえる日本料理は絵画(空間芸術)のようである。これに魯山人の食器でも使われれば、料理は目で味わうものになる。これに対して、一皿一皿、目の前にあるものから片付けていく食べ方を「時系列型(片づけ喰い)」というそうだ。

“片づけ喰い”のアメリカ人と、 “つつき散らし喰い”の日本人が連れだってバイキング・レストラン(食べ放題)に出かけた友人の話である。アメリカ人のお皿には少量、日本人のお皿にはアレもコレもと満載の料理。(反対じゃないか)と友人が思ったのは初めだけだった。アメリカ人は何回か席を立って料理をとりに行ったが、終わってみれば彼らのお皿はきれいなもの、日本人のお皿には残りものが一杯あったという。

欧米人の食事が時系列だというのは、おもに肉食のせいでもあろう。卓上でナイフとフォークを操って硬いものを食べる。あるいは大皿に盛り付けてあるものを回してもらって自分でよそう。それには時間がかかり、間ができる。そこに会話が入るのだ。一緒に食事をしている人とテンポを合わせて、同じころに食べ終える。これが個人主義の欧米人の食べ方である。

一方、間なしですすめられる食事が米食パターンの日本人の空間展開型である。共食していても食べ終わる時間はマチマチだ。お米を神聖化したために「食事中おしゃべりをしないで!」といわれ続けてきた習慣もあろうが、日本人は黙々とマイペースで食事を摂るのである。

よくいわれている「個食」や「孤食」は、いまに始まったことではないであろう。箱膳だった昔は、家族揃った食事でも、家長怖さにそれぞれが押し黙って食べる「個食」だった。共食の食卓でそれぞれ違ったものを食べるのも「個食」である。
また、家族が揃わず、食べるものもバラバラだという「個食」「孤食」を強いられる子供の食事は“子食”か。年端のいかない子供がひとりで外食(戸食)するさまはゆゆしき問題だと思う。
食事だけは個人主義というのが日本の伝統であったらしい。
「食」の文化と文明シリーズ 『箸とフォーク』(宗仕雅子著/三嶺書房)より
なお、2013年9月22日 (日)に「国が変われば食事のマナーも変わる、そして日本でも地域によってこんな違いが…」を掲載していますので、ご参考まで。
http://leaf-wrapping-lw.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-214d.html

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2015年7月27日 (月)

「正しく考える方法」はどうすれば身につけられるか? 文明と文化(10-2)

日本を例にとって考えてみましょう。日本は直系家族類型です。あるいは少し前までは直系家族でした。そのため、この直系家族の考え方、メンタリティーが強く残っていて、私たちの意識を規定しています。どんなふうに規定しているかというと、一つは「自分の頭で考える」ということをしないということです。

日本社会に、いまでもあい変わらずあるかもしれない直系家族の特徴
直系家族の特徴は、自分の頭で考えなくとも、だれかほかの人が考えてくれるという点にありました。「この学校があなたに一番向いているから…」「この会社がいいから…」「この人と結婚するのが一番いいから…」と、そんなふうに、父母が人生の大事なところまで全部決めてくれ、言う通りにしていれば、それでよかったのです。

では、こうした直系家族の国では、父母はいったいだれからそうした「正しい考え方」を教えられてきたのでしょうか? お父さんの親、お母さんの親からです。つまり、先祖代々、伝えられてきたことを次世代に伝えるという形を取ってきただけで、だれも自分の頭で考えたことはなかったのです。

直系家族の国に新ビジネスは生まれにくいがプロフェッショナルは輩出
このようにして、それぞれの家の伝統(文化)を守り継承してきているため、直系家族の国は、伝統墨守のタイプが多く、突飛な考え方やとんでもない考え方というのは生まれにくいのが普通です。その代り、技を後世に伝えるようなことは得意で、ドイツならマイスター、日本なら匠ということになります。

『ロビンソン・クルーソー』は核家族類型の国でしか生まれない物語
これに対して、核家族類型の国というのは、親と子どもの関係が権威主義的ではなく、子どもは自分を守るために自分の頭で考えることを学びます。こうした核家族類型の思考法の典型がデフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。無人島でサバイバルするため、自分の頭で考えて行動するのは核家族類型の子どもと同じ立場なのです。

「自分の頭で考えるな」と親や先生から言われ続けてきた日本人
ところが、長い間、直系家族でやってきた日本人は、この「自分の頭で考える」ということ、つまり、リスクとベネフィットを秤にかけながら短期的ではなく長期的に見て何かが一番自分にとって得になるかを考えることが苦手なのです。それは、「自分の頭で考えるな」と周囲から言われ、その方法を教えてもらっていないからです。

参考文献:『進みながら強くなる』(鹿島茂著/集英社)

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2015年7月26日 (日)

家族形態(直系家族と核家族)の違いがもたらしたもの 文明と文化(10-1)

『木の葉』ブログ500回の区切りとして取り上げた「文明と文化」シリーズも最終章です。締めくくりにふさわしいテーマは何かと模索する中で、このところの暗いニュースの発信源となっている「家族」にしようとの思いに至りました。崩れかけてはじめている日本的な「直系家族」と欧米的な「核家族」の違いに焦点を当てます。

エマニュエル・トッドというフランスの家族人類学者が次のようなことを言っています。西洋、なかでも英米やフランスといった国と日本はいろいろ違うのだけれど、最も根本的な違いは、家族形態の違いだ。家族形態の違いが、現在の私たちの「考える」ことにまで影響を及ぼしているのだと。

子どもの独立後、互いに干渉せず、それぞれに人格を認めあう核家族
イギリス、アメリカ、フランスを中心とした国の家族形態は「核家族」です。お父さん、お母さん、子どもの組み合わせが家族の最小にして最大の単位を形づくっています。子どもは大きくなって独立した生計を営むようになると親元を離れ、結婚して新しい家庭を作る。成人した未婚の子どもでも親と一緒に住むことはありません。

「親―子―孫」の縦型の家族形態が「直系家族」
それに対して、日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった国の家族形態は「直系家族」と言います。これは、子どもが成長して生計を立てられるようになっても、親はそのうちの一人の子供と同居するという家族形態です。子どもは結婚して子どもができても、お父さん、お母さんと同じ屋根の下に住みます。

フランスやイギリスには、二世帯住宅という言葉も住宅もない
日本には「二世帯住宅」というのがあります。これは、もともと直系家族だったものが核家族的に変化したけれど、完全な核家族にはなれないということで、便宜的に発明された住所形態です。ところがフランスやイギリスでは子どもが独立したら、同じ町に住むことはあっても、隣には住まないので二世帯住宅が存在しないのです。

家族は親子関係と兄弟関係で4つの類型に分かれる(トッドの研究より)
ヨーロッパでは、ほとんどの国が①イングランド型の絶対核家族(親と成人した子は別居。遺産相続で兄弟の関係は不平等)、②フランス・パリ盆地型の平等主義核家族(親と成人した子は別居。遺産相続で兄弟の関係は平等)、③ドイツ型の直系家族(親と成人した一人が同居。遺産相続で兄弟関係は不平等)、④ロシア型の外婚制共同体家族(親と成人した子全員が同居。遺産相続で兄弟関係は平等)の4類型に分かれます。

参考文献:『進みながら強くなる』(鹿島茂著/集英社)

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2015年7月24日 (金)

村上春樹氏のクルマを通しての体験的東西文明論  文明と文化(9-2)

「文明と文化(9-1)」続編
デザインの専門的なことは僕にはよくわからないけど、黄金分割なんていうものがそれほど絶対的な価値を持っているとは思えない。それに教育制度が完備しているのは何もヨーロッパだけではない。クーエンハイム会長の話を聞いていると、欧米以外の国は、あるいは白色人種以外の人間は、伝統もなければ教育もない野蛮国、野蛮人ということになってしまいそうである。

こういう本音が出た発言を聞くと、今ネオナチが台頭しているのもむべなるかなという気がしてくる。僕だけではなくて、アメリカ人だってこういう黄禍論的なプロパガンダに触れると、ちょっとひっかかるところがあるんじゃないかという気がする。
ひとつの国の中に様々な種類の人種や文明を抱え込みつつ、なんとかうまくやっていこうと努力している――少なくともそういう建前でやっている――この国の人々の感覚には、このBMW会長の傲慢な発言はやはり馴染まないだろう。

確かに車を発明したのもヨーロッパ人だし、したがってその造形についても彼らの方に一日の長はあることもたしかである。日本の車は所詮物真似だとクーエンハイム会長が言いたい気持ちもよくわかる。それはある意味では真実だと思う。しかしそこに見受けられるある種の不寛容な選良性は、その鮮明な階級意識は、アメリカの風土とは明らかに異質なものである。

僕の運転しているフォルクスワーゲンはそれほど偉そうな車ではないけれど、それでもアメリカで運転していると、生活感覚と運転感覚とのあいだに、何かが1枚はさまったようなぎこちなさをふと感じてしまうことがある。「ちょっと違うんだよな」というところがある。

そう考えると、日本の車にはオリジナリティーや哲学や喜びがないと言われながらも、日本の自動車メーカーは「洗練された大きなカローラ」的なるものを、下から上にと積み上げていくことによって、これまでになかった新しいイデアを――メルセデス・ベンツ的なイデアに拮抗するイデアを――少しずつ創造しつつあるのではないかという気さえしてくる。
でもそういう新しい価値基準が、車を運転していてもあまり面白くない日本という土壌から出てくるのは不思議といえば不思議な話である。となると、世界はこれからだんだんグローバルに退屈で面白くない場所になってくのだろうか? あるいは逆に世界があまり退屈で面白くない場所になりつつあるからこそ、日本的なるものが世界的に評価されることになるのだろうか?(「黄金分割とトヨタ・カローラ」より)

参考文献:『やがて哀しき外国語』(村上春樹著/講談社)

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2015年7月23日 (木)

村上春樹氏のクルマを通しての体験的東西文明論  文明と文化(9-1)

前回(8)BMW会長のコメントを引用させていただいた村上春樹氏の『やがて哀しき外国語(1997年2月刊)』には、実際にアメリカやヨーロッパで暮らした体験をもとにした氏のヨーロッパ批判(建前としての普遍的人権と、実際としての階級社会)が登場します。その中から主にクルマにまつわるお話を、今回は取り上げます。

先日雑誌を見ていたら、フォン・クーエンハイムというBMWの会長のインタビュー記事が載っていた。BMWはアメリカの不景気と日本車の攻勢、特に高級車部門への急速な進出によって、北米での売り上げが大幅に落ち込んで、かなりの危機感を持っているようである。

だからどうしても日本車に対する嫌悪感がむき出しになる。日本の高級車は、高級車とは名ばかりで、結局は「洗練された大きなカローラ」じゃないか。料理でいえばファースト・フードに毛が生えた程度のものじゃないか。俺たちの作っている車はそれとはぜんぜん成り立ちが違うんだ、格が違うんだ、というのが会長の言い分である。

それは確かにそうかもしれないと思う。でも問題はアメリカ人たちがその「洗練された大きなカローラ」にけっこう喜んで乗っていることである。たぶん肩がこらないからじゃないかと思うのだが、まあそれはそれとして、インタビューの中にちょっとおもしろい発言があった。

「日本車のことだけれどね。我々は(彼らに比べて)大きなアドヴァンテージを持っているし、そのことを我々は誇りにしている。それはね、我々は大きなバックグランドを持っているということなんだ。この2千年、3千年の歴史の源はギリシャであり、ローマなんだ。そしてルネッサンスなんだ。スタイリングのすべてはヨーロッパで作り出されたんだ。ギリシャの寺院を見たまえ。いわゆる黄金分割というやつだよ。そして平面やら、スタイリングやらの組み合わせに目をやってほしい。たとえばフランスのファッション、イタリアの高級メンズ・スーツ。価値とはそういうものだよ。そしてその価値を手にしているのは我々だよ。何故ならそういうものをきっちりと身につけるには、伝統というものが必要とされるからだ。そして何世紀にもわたる教育というものがね」

BMWは良い車だと思うけれど、このクーエンハイム会長の発言は基本的にいささか不穏当だし、細部にはいくつかの間違いがある。たとえばこの2、3千年の歴史の源がギリシャ、ローマだというのはあまりといえばあまりの話である。世界史においてヨーロッパがはっきりと主導権を取ったのは、せいぜい産業革命以来のことである(以下9-2に続く)。

参考文献:『やがて哀しき外国語』(村上春樹著/講談社)

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2015年7月21日 (火)

トヨタの偉業、高級車ブランドでも・・・世界で最も成功した「レクサス」 2015年7月19日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(8)」補足資料(2)

■中国メディアの捜狐は5日(2015年6月5日)、世界でもっとも成功を収めた高級車ブランドはレクサスだと主張する記事を掲載した(その一部抜粋)。

 記事は、ドイツのBMWは2005年にベンツを抜いて世界でもっとも販売台数の多い高級車ブランドとなったと伝え、「BMWも間違いなく世界で成功した高級車ブランドの1つだ」と指摘。だが、BMWよりも大きな成功を収めたブランドこそがレクサスだと主張し、その理由として「極めて短期間のうちに世界トップレベルの高級車ブランドに成長したこと」を挙げた。

 販売台数だけで判断すればベンツやBMW、アウディなどレクサスよりも多いブランドは存在するとしながらも、レクサスブランドの誕生は1989年であり、他の3社はいずれも100年以上の歴史をもっていると指摘。「成長の速度という観点で判断すれば、レクサスは世界でもっとも成功した高級車ブランドだ」と論じた。
 続けて、「歴史の長さ」を背景として持たずにレクサスが短期間で成功を収めた理由について「数々の“1位”を持っているから」と指摘。信頼性の高さやアフターサービスの質は高級車ブランドのなかでも最高だとしたほか、音響や最高級の本革シートといった車内の作りもすばらしいと評価した。 

■米誌自動車ブランドランキングで「レクサス」が3年連続首位
[デトロイト 2015年2月24日 ロイター] - 米有力消費者情報誌コンシューマー・リポートが毎年発表している自動車の「ブランド・リポート・カード」ランキングで、トヨタ自動車の高級車ブランド「レクサス」が3年連続で首位となった。
同ランキングによると、2位がマツダ、3位がトヨタとなり、日本ブランドが上位を独占した。独フォルクスワーゲン(VW)のアウディ、富士重工業のスバルが続いた。VWのポルシェに次いで米ゼネラル・モーターズ(GM)のビュイックが7位に入った。米ブランドのトップ10入りは初めて。8位から10位まではホンダ、韓国の起亜自動車、独BMWの順となった。
車種でみると、日本ブランドではスバルのフォレスターが小型SUV(スポーツ用多目的車)部門でトップとなり、トヨタのハイランダーが中型SUV部門で首位となった。全体の最優秀モデルには2年連続で米テスラ・モーターズのモデルSが選ばれた。

■ギネスブックによると、トヨタ・カローラ は 世界一広範囲に販売されている自動車で、その取扱店は140以上の仕向地(しむけち=国と地域)にのぼる(ただし欧州の一部地域では2007年以降よりオーリスに取って代わられた)。Wikipediaより

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2015年7月20日 (月)

「文明」は都市と密接に結びつき、「文化」は土地と深く関連する(中略部分&前後) 2015年7月19日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(8)」補足資料

(前出)civilizationという言葉がラテン語のcivilis(都市民の)に由来することからも明らかなように、「文明」は当初から都市と密接に結びついていた。文明は都市の誕生とともに始まる。都市の発達が文明をもたらしたと言ってもいい。「耕す」という意味を持つ言葉から派生した「文化」が、それ故に土地と深く関連しているのと対照的である。

(中略部分)都市には多くの人が集まる。それもさまざまな土地からやってきた人々である。限られた地域内で成立する社会、たとえば農村共同体のような社会では、その成員はいずれも顔見知りの仲間である。だが都市では事情が異なる。都市を構成するのは、見知らぬ他人同士である。その他人同士の間で安定した社会を作り上げるために、明確な法や規則が定められ、諸々の設備や制度が整えられ、交際の儀礼や作法が成立する。すなわち文明の誕生である。つまり文明は、当初から限られた地域の枠を越えて拡がる性向を持っていた。普遍性への志向は文明の大きな特質なのである。

それに対して、土地に根ざした「文化」は、それを生み出した地域社会に固有のものという性格を強く持つ。文化はそれぞれの地域の風土と歴史に養われるからである。というよりも、風土的条件と歴史の積み重ねによって形成された習俗、価値観、行動様式などの総体およびその所産を「文化」と呼ぶのである。文明が横に拡がるのに対して、文化は縦につながる。
「地域文化」ということがしばしば論じられながら、「地域文明」という言い方がないのは、そのためである。同様に、地域のみならず、何らかの意味で限定された社会集団が、他の社会集団から区別された独自の価値観や行動様式をもつ時、それは「文化」となる。「若者文化」とか「企業文化」と言われるものがその例である。ここでも文化はその社会集団の枠を越えることがない。したがって、「若者文明」や「企業文明」は成り立たない。

(前出)ひとつだけ単純な例をあげるとすれば、・・・(省略)・・・それぞれの国の文化的特色が強く表れるのである。

(後略部分)文化がそれほどまで強固な固有性を保持するのは、それが人々の帰属感を強め、統合を確立し、自己確認を保証してくれるからである。ある社会、ないしは社会集団のアイディンティティは文化によって保たれる。それだけに、異なった文化の登場、あるいは介入は、しばしば自分たちの存在自体を脅かすものと受け取られる。それが車のデザイン程度のことならまだいい。ただより高度な精神的価値、たとえば宗教にかかわる問題になると、時に深刻な結果をもたらす。キャプテンクックの悲劇はまさしくその例であろう。端的に言って、この航海者は異文化に殺されたのである。
『本の遠近法』より

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2015年7月19日 (日)

現代文明は「自動車」を通して語られることが多い  文明と文化(8)

(「日経WagaMaga」「自動車」第4回)に平井敏彦氏の興味深い記事がありました。「自動車における文明はA地点からB地点まで、いかに早く快適に行けるかを追求して作り上げたもの。一方、文化はその区分をいかに楽しく進むかがポイント」というものです。この記事をヒントに今回は、自動車にまつわる文明・文化論です。

「文明」は都市と密接に結びつき、「文化」は土地と深く関連する(※1)
civilizationという言葉がラテン語のcivilis(都市民の)に由来することからも明らかなように、「文明」は当初から都市と密接に結びついていた。文明は都市の誕生とともに始まる。都市の発達が文明をもたらしたと言ってもいい。「耕す」という意味を持つ言葉から派生した「文化」が、それ故に土地と深く関連しているのと対照的である。

ひとつだけ単純な例をあげるとすれば、機械文明は西洋社会が生み出したものだが、文明であるが故に西欧だけに限らず、いまでは地球全体に拡まっている。その成果のひとつである自動車は、アメリカでも日本でも中国でも同じように造られ、同じような性能を示す。
だが、車体のデザインとか色彩とか、あるいは乗り心地といった感覚的価値に関する点になると、ヨーロッパのなかだけでも、ドイツ車は重厚だとか、イタリア車は軽快だといったお国柄が見られる。それぞれの国の文化的特色が強く表れるのである(中略。なお中略部分は、翌日の補足資料とします)。

BMW会長が日本車(大きなカローラと総称)に抱く嫌悪感(※2)
(BMW会長のフォン・クーエンハイムが日本車批判をしていることについて、階級を重んじるヨーロッパの高級車産業では)どうしても日本車に対する嫌悪感がむきだしになる。日本の高級車は、高級車とは名ばかりで、結局は「洗練された大きなカローラ」じゃないか。料理でいえば(マクドナルドのような)ファースト・フードに毛が生えた程度のものじゃないか。俺たちの作っている車はそれとは全然違うんだ、伝統が違うんだ、格が違うんだというのが会長(BMW会長)の言い分である。

車にも共通する海外進出と地域文化との軋轢(※3)
かつて20年ほど前に、親日的であるといわれてきたタイ(ばかりではなかったが)で日本製品の不買運動が巻き起こったことがあった。その時タイの人々の間に聞かれた次のような若い学生の意見を私は忘れられない。
「欧米の連中も、自国の製品を押しつけるが、やり方は不親切だ。買え、買えない? それじゃあしょうがない。そこまでだ。それに比べて、日本の連中は“親切”だ、購買力が不足している? では長期の割賦でいいです。それでもだめ? じゃ工場を建てましょう、そこで働いてください、給料も高く払います、それで買うことができるようになるでしょう。こうして日本製品を結局買わされ、われわれの伝統的な生活が一つひとつ壊されることになるんだ」。

※1:『本の遠近法』(高階秀爾著/新書館)
※2:『やがて哀しき外国語』(村上春樹著/講談社)
※3:『文明の中の科学』(村上陽一郎著/青土社)

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2015年7月17日 (金)

朝日新聞【天声人語】&鹿島茂著『進みながら強くなる』より 2015年7月2日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(3)」補足資料の追加

2015年7月3日に、映画『風と共に去りぬ』を「文明と文化(3)」の補足資料としましたが、掲載直前の6月27日朝日新聞『天声人語』で視点はやや異なりますが、同じ『風と共に去りぬ』をテーマに書かれていました。貴重な材料と思いましたので、参考までにこれと関連資料を追加します。

【天声人語】小説も映画も、南北戦争を背景にした『風と共に去りぬ』の人気は高い。世界で最も読まれた小説といわれたほどだが、地元アメリカでの視線は、素直なものばかりではない。黒人のなかには複雑な思いを抱く人もいるようだ
▼奴隷制の上に成り立っていた米南部の大農園。「古き良き南部」への郷愁や描き方が、虐げられてきた側の感情に触ると聞いたことがある。南北戦争で奴隷制を擁護した南軍の旗は、いまも黒人とって「差別の象徴」として嫌悪が激しい
▼一方で、「伝統と誇り」を表す旗として、並々ならぬ愛着を寄せる白人の保守層も多い。南部の州を旅すれば、19世紀の異物のはずの旗を様々な場所で目にする。それを撤去し、販売もやめる動きが広まっていると、昨日の国際面にあった
▼南部サウスカロライナ州で、男が教会で黒人9人を射殺した。男が旗を持つ写真が見つかり、くすぶり続ける是非論が再燃した。ここは『非』への流れを進めるときだろう。旗には白人至上主義や憎悪犯罪の記憶が生々しく染みついている
▼もう12年も前になる。南部ジョージア州の議会が、南軍旗を取り込んだデザインの州旗の廃止を議決した。長年の論争をへた「勝利」に涙する黒人議員もいた
▼取材で聞いた言葉が脳裏に残る。「泣いたからと笑わないでくれ。南部の歴史を知っているなら、どれほど意味のある大仕事だったか分かるだろう」。州の旗は新しくなった。差別をなくす道は険しいが、歩めば近づくと信じたい。(2015・6・27)

南北戦争以前(1830年代)の米国南部の驚くべき実情
ドクヴィル(アンリ・クレレル・ド・トクヴィル:フランス人の政治思想家=山本註)は南北戦争(1861~65年)以前の1830年代にアメリカを視察し、次のような驚くべき事実を発見した。
それはミシシッピイ河を挟んだ2つのよく似た州を観察したときのことです。かたや奴隷州、かたや奴隷が解放された自由州。環境も面積も人口もほぼ同じなのに、奴隷州は衰退し、自由州は大発展を遂げているのです。では、どちらの黒人が惨めな環境に置かれているかといえば、圧倒的に自由州の黒人の方が劣悪な労働条件で働いているのです。

ヒトは、奴隷という案外コストのかかるものに代わって、労働者という存在を発見し、面倒くさいことは全部やらせることにしたのです。
かくて、ヒトの社会は資本家と奴隷という関係から、資本家と労働者という関係に変わりました。そして、その労働者も、面倒くさいことはできる限り他人にやらせようと考えますから、自分の下で働く労働者を雇うことになります。こうして、主人(社長)をトップに、派遣労働者を底辺にした「面倒くさいことの順送りシステム」ができ上がっていくのです。
出典:『進みながら強くなる――欲望道徳論』(鹿島茂著/集英社)

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2015年7月16日 (木)

東西文明の違いをヒントに大発見をした日本人  文明と文化(7)

花王のアタックについては2010年1月30日(*)に取り上げていますが、そのアタックの深~い誕生秘話が参考文献(※)に登場しますので紹介します。この製品は洗剤市場の永遠のベストセラーであると同時に、その小型パッケージはグローバルスタンダードになりました。画期的なその製品を生んだ東西文明の違いとは…。

1987年、日本から粉せっけんの大革命が起こりました。現在のようにコンパクトになって、しかもスプーン一杯ほどできれいに洗える洗剤「アタック」が新発売されたのです。ここにはアルカリセルラーゼという酵素が含まれており、それを発見したのが、当時理化学研究所主任研究員の堀越弘毅博士でした。

1968年36歳の堀越博士はフィレンツェの丘の上で天の啓示を受ける(*)
「・・・暮れかかるトスカーナ地方の秋をぼんやりと眺めていた。そこには、日本とはまったく違った、過去と現在とが融けあったようなルネッサンスの世界があった。ルネッサンスの文明は日本の文明とは明らかに異なっている。
14~15世紀といえば、日本では室町時代である。室町時代の日本人は、このようなルネッサンス文明の世界というものを、想像することさえできなかったであろう。その時ふと脳裡に閃いたものがあった。」

その閃きとは、「人の世界にはこのような環境に強く支配された異なる文明があるのだから、微生物の世界にも、きっとわれわれがまったく知らない世界、知られていない世界があるのではないか。」このようにして、堀越博士は、東西文明の違いから、当時の微生物学に欠落していた世界に気がついたのでした。

閃きを得て、いても立ってもいられなくなった堀越博士は大至急帰国し、理化学研究所周辺の和光市の土壌を採取しました。普通の肉汁培地に1%の炭酸ナトリウムを加えてアルカリ性環境にして、そこに30カ所ほどの土を少しずつ加え、37°Cで一晩培養しました。すると翌朝、すべての試験管の中で微生物が生育していました。

これまでのパスツールやコッホの常識・概念を完全に引っくり返し、アルカリ環境という世界にも生物が存在していることを、人類がはっきりと確認した瞬間でした。表の世界に対する裏の世界、西に対する東の世界、それが存在することが確認されたのでした。そして20年後に花王開発陣の快心作「アタック」が誕生したのです。

参考文献:『日本語の科学が世界を変える』(松尾義之著/筑摩書房)
※:『極限微生物と技術革新』(堀越博士の自叙伝/白日社)                 *:http://leaf-wrapping-lw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/index.html

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2015年7月13日 (月)

ドラッカー著『すでに起こった未来』より、「日本画にみる日本」続編 2015年7月12日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(6)」補足資料 

日本は、概念よりもむしろ知覚の分野に創造的な才能がある
 マーシャル・マクルーハン(1911~80年)は、電子メディアが世界の見方や解釈の仕方を変え、我々を分析的に考えることから知覚的に見るように変えたと宣言した。
 しかし、西洋における知覚的なものの見方の存在についてよく考えてみるならば、日本画への理解によって類推されるように、そのような移行はすでにかなり前に起こっており、電子技術にはかかわりがないという結論に達する。

 むしろ逆に、西洋において電子技術が準備され、それを受け入れる用意ができたのは、すでに西洋でも、伝統的な描写と分析から、日本人が昔から持っていた構図と形態の知覚への移行がおこなわれていたからこそであるとも考えられる。

 西洋近代美術史の大家ロバート・ローゼンブルムは、その著『近代絵画とロマン派の伝統――フィリードリッヒからロスコまで』において、近代西洋絵画は、ヨーロッパ北部、主としてドイツ北部の19世紀の画家、描写から構図への移行を成し遂げたキャスパー・デイヴィッド・フリードリッヒ(1774~1840年)らにその源があると言っている。

 しかし、これは日本で、すでにはるか昔に起こっていることである。分析的概念に対置するものとしての知覚、描写に対する構図、幾何に対する位相、分析に対する形態は、実に10世紀以降の日本画における継続的な特性である(中略)。

  中世における西洋最大の偉業は、トマス・アクィナス(1225~74年)の『神学大全』であり、これは人類の歴史の中でも最高の概念的・分析的な著作である。これに対して、日本の中世にあたる11世紀の最も誇るべき偉業は、宮中の男女、愛と病と死に関する婉曲的な描写からなる世界最高の小説、紫式部の『源氏物語』である。

 日本の最高の劇作家、近松門左衛門は、カメラやスクリーンこそ使わなかったが、その文学と歌舞伎は高度に映画的である。台詞と同じように、歌・踊り・衣装・音楽
があり、登場人物は、何を言うかよりも、どう見えるかによって性格づけされる。誰も近松の台詞を引用しない。しかし、場面を忘れるものはいない。
近松は劇作家ではなく脚本家である。彼の歌舞伎は、映画のための道具は何一つ使わずに、映画の技法を発明してしまっている。役者が不動のかたちをとる見得は、まさに映画のクローズアップである。
 
 日本の近代社会の成立と経済活動の発展の根底には、日本の伝統における知覚の能力がある。これによって日本は、外国である西洋の制度や製品の本質と形態を把握し、それらを再構成することができた。日本画から見た日本について言えるもっとも重要なことは、日本は知覚的であるということである。
(初出「ソング・オブ・ザ・ブラッシュ」、1979年)

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2015年7月12日 (日)

ドラッカーが日本画を通して語る「日本文明」  文明と文化(6)

過日、千葉市美術館で『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画』展があり、広くマスコミ(「NHKの日曜日美術館」「日本経済新聞・春秋&文化欄」)にも取り上げられました。今回は趣向を変え、マネジメントの父と呼ばれたドラッカー氏の著書『すでに起こった未来』から、「日本絵画にみる日本」をご紹介します。

西洋とその現代絵画を見るために日本画を利用あるいは乱用することとしたい
 蘆雪は、1780年代に道成寺の鐘を描いた。そのテーマは、有名な歌舞伎と同じである。この絵は抽象度の高い、非具象的な作品である。描かれたのは、西洋に抽象画が現れる150年も前である。しかも、この作品は日本最古の抽象画ではない。日本の抽象画は10世紀の平安時代にまでさかのぼる。

谷文晁は印象派の半世紀先を行き、白隠は表現派に勝るとも劣らない
 江戸、つまり今日の東京の偉大な画家であった谷文晁は、西暦1800年の少し後、月下の梅花を描いて、半世紀後のジョセフ・ターナーやモネが行おうとしたことを先取りした。彼は「光」そのものを主題にした。
白隠の達磨は、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、アフルレッド・クービン、表現派の時代のパブロ・ピカソ、そしてアンリ・マチスと同じように、表現派に属すると言える。しかも、彼らのなかでもわずかの者にしかない力がある。

自分の絵も見ずにこのようなものは描けるはずがないとピカソは怒った!?
 したがって、西洋のモダニズムは日本の伝統のなかに予見されている。おそらく作り話だろうが、1953年にパリで開かれた禅僧仙涯の美術展に連れて行かれたピカソは、自分の絵も見ずにこのようなものは描けるはずがないと怒り、怒鳴って会場から飛び出したという。このように、西洋絵画におけるモダニズムは、日本の伝統のなかで先にかたちづくられていたとまで言えないにしても、少なくとも前触れはされていた。

 しかしもちろん、西洋の絵画は日本画を見たこともなければ聞いたこともなかった。西洋では、版画の浮世絵以外に、日本の絵画についてはごく最近までほとんど知られていなかった。換言するならば西洋は、日本では昔からのものだった近代的な視点や感覚を、ようやく100年間に育てあげたということになる。
 西洋は、日本では昔からのものであった新しい物の見方を習得した。西洋もまた、描写と分析から、構図と形態へと移行したのである(以下翌日の補足資料に続く)。

参考文献:『すでに起こった未来―変化を読む眼』(ドラッカー著/ダイヤモンド社)
Ⅶ部 社会および文明としての日本 11章「日本画にみる日本」より 

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2015年7月11日 (土)

専門家による多角度的「文明」と「文化」論 2015年7月9日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(5)」補足資料(2)

引き続き、参考文献『本の底力』の「文明」と「文化」と題したコラムより

文明と文化は、使われる言葉としてどのように異なるのか。
 上村春平はシリーズ『日本文明史』の冒頭で次のように述べる。
 「文化」は精神的で、「文明」は物質的、といった見方が広く通用しているように見える。……「文化」は、学問、芸術、宗教などの高度な精神的活動とその所産を意味し、これに対して、「文明」のほうは、主として、生活の物質的条件の改善にかかわる活動やその所産を意味する、といった使い分けがなされていた。……こうした考え方はもともと18、9世紀のドイツから戦前の日本に導入された。……(当時の)ドイツは哲学でカントやヘーゲル、文学ではゲーテやシラー、音楽ではモーツアルトやベートーベンの活躍した時代で……学問や芸術という精神的活動の面ではドイツがヨーロッパ諸国の中で最高の水準を示していた……。しかし政治的には、ルイ14世の華麗な治世につづき大革命を成し遂げたフランスに遅れをとっていたし、経済的には、産業革命の口火を切ったイギリスに及ばなかった。
 そこで、イギリス人やフランス人たちが、当時の世界最高水準を自負する彼らの政治的や経済的な達成をはじめとして、学問や芸術等をひっくるめて「文明」(civilization.civilisation)とよんだのにたいして、ドイツ人は、みずからの誇りとする学問、芸術等の精神的活動とその所産を「文化」(kultur)とよんで、文明と区別した――(上村春平『日本文明史』)。

 「文明」「文化」についての定義やことばの用い方は、ほかにもたくさんあり、すくい上げ切れない。だが幾つかの論考を踏まえ「文明」や「文化」とはなにかをまとめてみると、次のようになる。

■コラムのまとめ
文明とは 
・人間が意識的に作り出した有形無形の人工物の体系、生活の物質的条件の改善にかかわる活動やその所産、技術が不可欠の要素
・生活圏の外側を形成する科学的技術、政治制度、経済組織、法律体系などの制度・組織・装置
・それぞれの社会に共通し、移植可能

文化とは
・社会の成員の間で意識されないまま学習・適用・伝達されていく半ば意識下まで根を下ろした生活様式、慣習であり、歴史的、社会的、心理的、情緒的な特質がある
・生活圏の内側にある哲学、芸術、宗教などの高度な精神的活動とその所産
・個々の社会や社会の一部に独自の特質が多く、移植困難

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2015年7月10日 (金)

専門家による多角度的「文明」と「文化」論 2015年7月9日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(5)」補足資料(1)

前回の参考文献『本の底力』に――「文明」と「文化」――と題したコラムがあり、そこには専門家の「文明・文化観」が幅広く蒐集されています。きわめて貴重な資料と思われますので、ここでその一部を紹介します。

「文明」と「文化」。英語でいえば「civilization」と「culture」。しかしその定義や解釈、使い分けはさまざまだ。とりわけ文化の場合、英語のなかで三本の指に数えられるほど複雑な単語だともされる。
先人・先賢の「文明・文化観」をいくつか見てみよう。

世界的なベストセラー『文明の衝突』の中で、著者サミュエル・ハンチントンは「文明という考え方は、18世紀フランスの思想家によって「未開状態」の対極にあるものとして展開された。文明社会が原始社会と異なるのは、人びとが定住して都市を構成し、読み書きができるからだった。文明化することは善であり、未開の状態にとどまることは悪だった」と述べている。
 文化とは半ば意識下にまで根を下ろした生活様式であり、身体的に習熟されて習慣化した秩序を意味している。これにたいして、文明は完全に意識化された生活様式であり、両者は連続的なグレーゾーンをはさみながら、しかしはっきりと分極している。
 イギリスの議会制度や機械工業は文明であるが、議員の演説の文体や、機械を操る微妙な身体的ノウハウは文化である。西欧の音階とリズムの体系は文明であるが、ここの演奏者の身についたスタイル、作曲家の体臭にも似た個性は文化に他ならない(『文明の構図』)。

「文明は、当初から限られた地域の枠を超えて広がる性向を持っていた。普遍性への志向は文明の大きな特質なのである。……それに対して……風土的条件と歴史の積み重ねによって形成された習俗、価値観、行動様式などの総体およびその所産を『文化』と呼ぶのである」(高階秀爾『本の遠近法』)。

 「文化と文明は対極である。……平板に表現すれば、量と質の世界といえようか。文明は、効率であるとか、GNPであるとか、量的に換算できうるものであるが、文化には三次元の尺度では測定できない。時間と空間を通過してしまう。別の次元の価値なのである。……文化には……美感あり、メンタリティーあり、知性あり、徳性がある」(篠田雄次郎『今こそ日本人は「文化」に戻ろう』)。

 「手に触れることのできる、目で見ることのできるような文明の世界と、心で感じる世界、他人にたいしてうまく説明のできない世界というものがあり、まさにそれが文化の世界」(橋口収『近代の座標軸を求めて』)。

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2015年7月 9日 (木)

iPadやスマホが「文明」なら、本や雑誌・新聞は「文化」  文明と文化(5)

(4)で司馬遼太郎氏の『アメリカ素描(※1)』を紹介しましたが、この文章は「文明と文化」をテーマにした書物の中によく引用されています。専門家の見解ではなく、広く大衆に親しまれた作家(後半は評論家的色彩が強いかも…)の手になるものだからでしょうか。今回ユニークな「メディア論」をその1例として紹介します。

司馬遼太郎氏『アメリカ素描』の引用部分から
文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」を・・・文化の発光物質なのである。(ここまで前号と同文。以下は参考文献※2による)・・・人間は合理的な生命組織の総合でありながら、しばしば不合理に生きることを好む。むしろ文化という不合理なものにくるまることによって精神の安らぎをえている。

「パブリケーション」としての本、編集長の「主観編集」による雑誌
「文化」という観点から、活字メディアの本や雑誌の特性を見てみよう。
本は、企画から著者の選定、本文の編集、業者との読み合わせ、装幀やイラストの選択、タイトルの選択、刷り部数や配本の決定、惹句や宣伝方法の工夫など、型にはまった定期刊行物ではなく単品ごとに制作される。それだけに、編集者に委ねられる裁量は大きく、類書とは異なる編集上独自のアイデアや光るセンスが決定的にモノをいうことになる。

雑誌の場合、そこで伝えられるべき内容は、まず「深く」であり、次に「的確に」、そしてできるだけ「速く」――である。
同じ活字メディアの新聞が事実そのものを一刻も速く伝える「速報型」のメディアなのに対して、雑誌はすでに報じられたニュースを受け、独自の解説や分析、展望など「深堀り型」の情報がいかに提示されているかが決め手となる。

デジタル情報が津波のようにあふれ、情報量が膨大であればあるほど、信頼性が高い深堀り型の専門情報である雑誌が、ガイド役として果たす役割は大きい。新聞が「速く」「正確に」を旨とし、5W1Hをどう客観的に伝えるかのメディアであるなら、雑誌は「深く」「的確に」が売りものの「第一人称ジャーナリズム」のメディアである。

活字メディアを「文明」と「文化」に仕分けすると
同じ活字メディアでも、ケタ違いに多い読者があり客観報道の「第三人称のジャーナリズム」を立て前にする新聞紙面からは、いささか「文明」の香りが漂うのに比べ、編集長や編集者によって独自の世界が築かれた「主観編集」「第一人称のジャーナリズム」の雑誌誌面や本の中身からは、その土地土地に根づいた作物の耕作と底において通じる「文化」の匂いがかぎ取れる。

※1:『アメリカ素描』(司馬遼太郎著/読売新聞社/文庫本は新潮社)
※2:『本の底力』(高橋文夫著/新曜社)
この本(※2)のコラム――「文明」と「文化」――からの抜粋を2015年7月10日、11日の補足資料とします。

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2015年7月 6日 (月)

カフェを経営する元ミュージシャンがコーヒーの文明と文化について語る  2015年7月5日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(4)」補足資料

「文明と文化(4)」で取り上げた司馬さんの『アメリカ素描』のこの個所は、さまざまな書籍に引用されています。ここでは、「シリーズ『食』の文化と文明」のタイトルにも惹かれ『おいしい珈琲をいかがですか』(寺澤武著/三嶺書房)を取り上げます。
なお、著者はダニー飯田とパラダイス・キング、山崎唯ピアノ・トリオ、和田弘とマヒナスターズなどで活躍した、元ミュージシャンだそうです。

さて、「コーヒーと文化」ということを考える時、私は次のような文中の一節を大変興味深く読んだのです。それは、

「ここで、定義を設けておきたい。文明は“誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの”をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。

たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。」(以下略)司馬遼太郎著『アメリカ素描』より

とあるように、普遍的な意味で「コーヒー」を文明に例えるならば、「抽出」の作業、とくに単純な手作業となる「フィルター・ドリップ抽出」には、文明では及ぼし得ない奥の深さを感じ、その素朴な作業の中には“心”が存在し、それが香味にもつながると考えられるのです。

つまり「抽出しさえすればよいという合理的な考え方では“おいしい珈琲”の香味を得ることは望めないということであり、多分に日本的文化の要素が色濃いこの手作業による抽出がより“おいしい珈琲”の香味を得る条件を備えている、と考えるのは私の偏見なのでしょうか……。

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2015年7月 5日 (日)

司馬遼太郎著「アメリカ素描」の中の「文明文化編」 文明と文化(4)

最近、千葉県のある青年経営者の勉強会で「異文化集団とのコミュニケーションに必要なスキル」を講話し、その冒頭で司馬遼太郎氏の『アメリカ素描(※1)』の第一部に書かれた、「文明と文化」に対する司馬さんの考え方を朗読しました。ある意味難解な内容を、わかりやすく伝えてくれる名文と筆者(山本)は思っています。

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれもくらしを秩序づけ、かつ安らがせている。

ここで、定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。

たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。

不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。」
*この部分引用の珈琲にまつわる「文明と文化論」が2015年7月6日の補足資料。

西欧と大きく異なるドイツ流の「文明と文化」に対する解釈
これは『マックス・ウェーバー(※2)』(青山秀夫著/岩波新書)に出てくる解釈です。マックス・ウェーバーがこのように語った(書物に著わした)というのではなく、この本を上梓するに際し、マックス・ウェーバーの人となりを語る場面で著者(青山秀夫氏)が、その思想を斟酌して書いたものであることを、お断りしておきます。

「卑俗な文明」と「高貴な文化」
ドイツでも日本でも文明と文化を区別する。それではなぜゆえに文明はいやしまれ、文化はたっとばれるのか。文明は、ベルグソンの言葉でいえば、「社会と理性とが我々のためにつくりあげてくれた安らかなブルジョアの世界」に関するからである。「しがない、味もそっけもない」といわれる生活の日常に関するからである。

※1:『アメリカ素描』(司馬遼太郎著/読売新聞社/文庫本は新潮社)
※2:『マックス・ウェーバー(※2)』(青山秀夫著/岩波新書)

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2015年7月 3日 (金)

映画の『風と共に去りぬ』を素材に、「文化とは何か」を考える 2015年7月2日 木の葉ブログ500回特集「文明と文化(3)」補足資料

出典は『文明の衝突とキリスト教――文化社会倫理学的考察』(東方敬信著/教文館)。タイトルから宗教とのかかわりを想起しがちですが、神学的要素は最後の一行のみ。全体的には難しいテーマを、多くの人が知っている「風と共に去りぬ」を素材に説き起こし、比較的わかりやすく解説してくれていると思ったので取り上げました。

文化分類学者は、どのような仕方で文化を問うのでしょうか。クリフォード・ギアーツによると、人間は、自分自身で紡いだ意味の網の目に包まれた存在ということになります。そして、文化とは、その意味の網の目です。それは、私たちが「物質的」に、「知的」に、「精神的」に作っている世界と言うことができます。

たとえば、私たちがアメリカ南部の「風と共に去りぬ」という映画になった素晴らしいプランテーションの館と庭園を見に行くとします。そこで、映画が撮られたことを案内人に聞いて歩いて行くと、さらにその庭園の出口の方に、「スレイブ・ハウス」つまり奴隷小屋の遺跡に出会います。
窓が一つしかない小さなレンガ造りの小屋です。そこで、家族五人が暮らしていた過去をイメージしてみます。そうすると、そこにあるのは「物質的」にはレンガの家ですが、貧しく抑圧されて生きていた家族が想像されます。建物は物質的なものですが、「知的」に歴史を理解する機会でもありますし、さらに人間の差別の歴史に怒りをおぼえる「精神的」影響も与えられます。

ここに「事物観」と言われたものがでてきます。またこれらが文化は意味の網の目と言われている様子でしょう。そして、それらは互いに関連していて、文化となっています。世界を物質的に構成したとしても、私たちはそれを解釈し、そこに価値判断をくだしているのです。その価値判断というのは、文化の中に生きている人類の自己理解ということになるでしょう。
ですから、私たちは、物質的なものであってもその意味をきわめているということになります。しかも、その日常生活あるいは生活環境は、象徴や理念や実践において判断されているはずです。

しかし、ジョン・トムリンソンは,『文化的帝国主義』の議論の最後に、近代世界の失敗は、人々が日常生活を構成する上で、価値や意味を決断できないでいるという特徴にあるといいます。価値は、望ましい社会関係、個人の行動様式、社会制度、政治組織など、個人的、社会的自己の目標を決めます。しかし、それだけでなく価値は、人々の感情を結びつけ、道徳的判断を導くといわれています。
文化とは、物質的世界の精神的、倫理的、知的意味にかかわりますが、まさに「充実した人間性」を求めてまさに愛や正義や平和という精神的意味を探る神学にもつながっていきます。

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2015年7月 2日 (木)

コーチング、お寿司のシャリ、カレーに見る文化の違い  文明と文化(3)

2015年6月13日の朝日新聞『耕論』の「自らを変える力」に3人(元プロ野球投手:小宮山悟さん、企業の技術者:中平陽子さん、料理評論家:小野員裕さん)が登場します。日米のコーチングの違い、国によるお寿司のシャリの好みの違い、日本のカレー食の多様性は、文化というものを考える上で、とても参考になりました。
*2015年7月3日に『風と共に去りぬ』が素材の文化論を補足資料とします。

壁の向こうに別の世界(元プロ野球投手:小宮山悟さん)
右ひじを痛め不本意だった6年目のシーズンが終わった秋季キャンプに大リーグで教えていたトム・ハウスさんが臨時コーチに。その教えは、「負傷をせずコンスタントに投げるのが投手の仕事で、抑えた、打たれたは二の次、三の次」というものでした。これまでと全く違う価値観を示され、小宮山投手は当初まったく納得ができません。

勝負どころでは腕が折れてもいいと教わってきたのに・・・
しかし、ピッチングを別の面から見ていることに気づいた小宮山投手は考え方を変えました。先発試合で交代を告げられても文句を言わなくなったといいます。そして、状況に応じてどんな投球をするかを考えるようになり、トータルでチームが勝つ投球を心がけた結果、このシーズンは入団以来初めて勝ち越した(11勝4敗)そうです。

「聞く」が支える遊び心(オーディオテクニカ特機部技術課主務:中平陽子さん)
面接で「すしロボットを作りたい」と志望動機を語った中平さんは、希望通り特機部に配属になりました。最近はすし握り機の輸出が増え海外出張することも。すると、米国のカアリフォルニアではシャリ玉が小さくて温かいのが好まれ、逆にハワイでは大きく冷たいもの、タイでは「玄米のシャリ玉」と言われたりするそうです。

職人の探究 食文化豊かに(料理評論家:小野員裕さん)
明治時代にカレーが上陸して以降、日本人は自分たちの舌に合うようにカレーを変化させ、肉、ジャガイモ、タマネギ、ニンジンが入った独特の「カレーライス」を作り上げました。カツカレー、カレーうどん、カレーそば、カレーパン、カレーコロッケなど、カレーを軸に、そのすそ野も広がってきました。

インドからスパイスを持ち帰ってカレー粉をつくった英国でも、ここまで変幻自在ではありません。日本人が換骨奪胎(オリジナルをアレンジ)して新しいモノを生み出していく原動力は、カレーやラーメンなどの気軽に入れる店の職人たちが真面目に味を追求し、柔軟にその味を変化させてきたことにあると思います。

参考資料:『朝日新聞』2015年6月13日「耕論」

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