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2015年7月 5日 (日)

司馬遼太郎著「アメリカ素描」の中の「文明文化編」 文明と文化(4)

最近、千葉県のある青年経営者の勉強会で「異文化集団とのコミュニケーションに必要なスキル」を講話し、その冒頭で司馬遼太郎氏の『アメリカ素描(※1)』の第一部に書かれた、「文明と文化」に対する司馬さんの考え方を朗読しました。ある意味難解な内容を、わかりやすく伝えてくれる名文と筆者(山本)は思っています。

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれもくらしを秩序づけ、かつ安らがせている。

ここで、定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。

たとえば青信号で人や車は進み、赤で停止する。このとりきめは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。

不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。」
*この部分引用の珈琲にまつわる「文明と文化論」が2015年7月6日の補足資料。

西欧と大きく異なるドイツ流の「文明と文化」に対する解釈
これは『マックス・ウェーバー(※2)』(青山秀夫著/岩波新書)に出てくる解釈です。マックス・ウェーバーがこのように語った(書物に著わした)というのではなく、この本を上梓するに際し、マックス・ウェーバーの人となりを語る場面で著者(青山秀夫氏)が、その思想を斟酌して書いたものであることを、お断りしておきます。

「卑俗な文明」と「高貴な文化」
ドイツでも日本でも文明と文化を区別する。それではなぜゆえに文明はいやしまれ、文化はたっとばれるのか。文明は、ベルグソンの言葉でいえば、「社会と理性とが我々のためにつくりあげてくれた安らかなブルジョアの世界」に関するからである。「しがない、味もそっけもない」といわれる生活の日常に関するからである。

※1:『アメリカ素描』(司馬遼太郎著/読売新聞社/文庫本は新潮社)
※2:『マックス・ウェーバー(※2)』(青山秀夫著/岩波新書)

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