老舗の虎屋に伝わる「儀式」と「掟書」
虎屋には代が替わり、新しい当主が事業を引き継いだ時に必ず行う儀式がある。京都の店には福徳、富貴の神様である毘沙門天が祀ってあり、普段は厨子の奥に封印されているが、その中に、九代目の当主・黒川光博氏も一人で入って像を拝んだ。お像の前に立って3,40分の間対峙していると、いろいろな思いが胸を去来したという。
お客様に対する責任、従業員やその家族に対する責任。何千人という人たちのことをこれから考えていかなければいけないと感じたり。では、自分は何をやるかと考えても、何も書かれたものがなく,これをしてはいけないという決まりもない。だから後のことはお前に任せるぞ。お前がこの時代を背負っていくのだから、自分の責任でやっていけばいいと。
代々残されてきた教えの中「掟書」があり、これが一番現代的で分かりやすいという。そこには、「倹約を第一に心がけ、よい提案があれば各自文書にして提出すること」や「お客様が世間の噂話をしても、こちらからはしない。また、子供や女性のお使いであっても、丁寧に応対して冗談は言わぬこと」など。現代にも通用するようなことが諸々書いてある。
ただ、変えてはいけないものがある一方で、変えていかなければいけないものもあるとの思いが九代目にはあるという。やはりその時代時代にあった味というものがあるのではないかと。例えば戦後のような甘味不足の中でお感じになる甘さと、和洋菓子が豊富にある現代の甘さは少し違う。和菓子の味は、時代によって変えていかなければならないと。
「和菓子」という言葉はいつからあるか 『和菓子とくらし(淡交社)』より
「和菓子」は明治時代以降に大量に移入された西洋の菓子と、日本の菓子を区別するために生まれた言葉で、現在のところ明治43年(1910)の『家庭実用百科大苑』に見えるのが、もっとも古い記録だそうです。「和菓子」に定着するまで、邦菓、日本菓子などいろいろな呼び方がありました。辞書に採録されたのは戦後のこととあります。
和菓子の歴史 『和菓子めぐり(発行所:JTB)』より
今でも果物を水菓子というように、本来、菓子とは木の実や果物を指した。甘い食べ物が少なかった時代は、干柿や栗でも貴重な甘味であり、現在私たちのいう菓子に近いものと感じられていたらしい。そのためか果物と菓子の区別が曖昧な時代が長く続く。菓子が嗜好品としての地位を確立し、今日のように多種多様になるのは、江戸時代も半ばのこと。
日本の菓子のもう一つの原形は、穀物を加工した餡や団子と考えられる。こうした日本古来の食物に外来食物の影響が加わり、和菓子の歴史は変化した。その外来食物としてまず挙げられるのが、奈良~平安時代に中国から伝わった唐菓子。多くは、米や麦の粉を練って様々な形に作り、油で揚げたもので、一部は今も神社などで神饌として作られている。
二番目は鎌倉~室町時代にかけ、禅宗とともに伝来した点心(昼食代わりの軽食で、羊羹や饅頭の原形はここに)。三番目は、室町末期よりポルトガルとの交流で入ってきた南蛮菓子(カステラ、金平糖、ボーロなど)。この3つの外来の食物の影響を受け、鎖国下の江戸時代、色・形・名前・素材ともに独自の菓子が作られるようになった。
※参考文献:『1日1話、読めば心が熱くなる 365人の仕事の教科書 11月26日:虎屋に代々伝わる儀式と掟書き(虎屋社長・黒川光博)』
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