五輪の名言とクーベルタンの名プレゼン
1908年の第4回ロンドン大会は、英米間でトラブルが多発した。当時実施されていた綱引きでは、英チームの選手の靴に鋲が打ってあると米が猛抗議したが、通らず米は棄権した。また、陸上400メートルでは米3人、英1人で決勝が行われたが、ランナー同士の接触が元で両国がにらみ合い。再レースを米が棄権し、英1人のみが走って優勝した。
そんな中、競技の休日とされていた日曜日、セント・ポール大寺院の礼拝で、ペンシルベニア司教のエセルバート・タルボットが「オリンピックで重要なのは、勝つことではなく、参加することである」と話し、英米の対立を諫めた。これを聞いて感激したクーベルタンは、後日、国王招待の晩餐会で司教の言葉を披露し、これこそ五輪の理想であると話した。
失敗に終わったクーベルタンの1回目プレゼン
オリンピック開催が決まったのは1894年6月17日に開催された、「パリ国際アスレティック会議」だった。なお、クーベルタンが29歳のときの「第1回オリンピック復活プレゼン」は1892年11月25日にイベントのフィナーレを飾る講演会の3番目に登壇するも、準備不足(プログラムにオリンピックの復活が不記載)で、このプレゼンは失敗する。
クーベルタンの回想によると、「聴衆の反応を自分はさまざまに予想していた。そのどれもが悲観的なものだった。夢物語と笑われる? 大風呂敷にあきれる? 反発? それとも無視? 私の予想はすべて外れた。その一方で、大きな拍手があり、みなが成功を祝ってくれたが、私の訴えたことを、誰一人理解していなかった」と。
オリンピック復活を成し遂げたクーベルタン2回目の名プレゼン
前回のプレゼンが失敗に終わった一番の原因は、「オリンピック」とはどのようなものなのかを聴衆に理解してもらえなかったことだとクーベルタンは理解した。「私が復活させたいのはこれだ!」というものを、会議参加者に明確に分かるように提示する必要があると。そのため、彼は準備段階から、大胆不敵で独創的なアイデアを随所に盛り込んだ。
①プレゼン半年前から、彼は根回しを始めた。
②祝典とレセプションを、初日に持ってきた。
初日に参加者の心を掴み、その後の会議をスムーズに進める狙いから、普通なら会議の最終日に行う儀式を、会期の冒頭に置いた。
③委員会をふたつに分けた。
議論百出のアマチュア問題を1委員会のテーマに押し込め、オリンピックから切り離した。
④開会式の入場券に「オリンピック大会復活会議」を印刷した。
祝典とレセプションを、あたかもオリンピック復活を祝うような印象を与えるために。
⑤会場は今回もソルボンヌ大学大講堂。
「オリンピック会議+名門大学大講堂」の組み合わせで、理性よりも感情に訴えかけた。
⑥ギリシャ国王から感謝の電報。
復活の賛否を問う投票が行われる2日前に、復活が決まったことに対して、クーベルタンや会議参加者に感謝するというギリシャ国王から電報が届き披露された。これはクーベルタンの確信的なフライングながら、復活会議が既成事実であるかのような錯覚を与えた。
⑦音楽で感動を動かす。
前年発掘された「デルポイのアポロン賛歌」の楽譜を作曲家ガブリエル・フォーレに合唱曲に仕立ててもらい、これをハープと大編成の合唱をバックに、当時オペラ座花形のジャンヌ・ルマルクに熱唱させ、初日に大講堂に響き渡らせオリンピック復活機運を煽った。
※参考資料:『歴史を動かしたプレゼン』(林寧彦著/新潮社刊)
| 固定リンク
「マーケティング・その他」カテゴリの記事
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の2例(2024.12.13)
- 英協会選最高映画8&仕事に役立つ映画(2024.12.04)
- 健全な「子育て」の知恵を文献から学ぶ(2024.11.22)
- 友情は人生にどのような影響を与えるか(2024.11.12)
- 興味深い4ジャンルの推薦『絵本』とは(2024.10.30)