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2024年7月

2024年7月30日 (火)

「地名」の由来は人名、自然、文化など

文京区の小石川(元は小石川村)の「春日」は徳川三代将軍家光の乳母・春日局が賜ったことに因む。同じく文京区の「音羽」は1681年に江戸城奥女中・音羽にこの土地を与えたのが由来。渋谷区の「初台」は徳川秀忠の乳母・初台局が自分の菩提寺として正春寺を建立したことによる。東京23区を見渡してもこれほど艶っぽい地名はないだろう。

JR山手線の駅名でもある有楽町は、信長の弟・織田有楽斎の屋敷があったことに因む。東京の玄関口・八重洲は、日本に漂着したオランダ人で家康の厚遇を得たヤン・ヨーステン(ヤウスとも)の屋敷を「八重洲御殿」と読んだのが地名の起こりだという。地下鉄の駅名になっている皇居西側の半蔵門は、伊賀忍者・服部半蔵の組屋敷があったことに由来。

認められないはずの同一市名が誕生したワケ

同音同字体の市名は、これまで東京都と広島県の府中市ただ一例。本来は、同音同字体の市名は認められていないのだ。昭和の大合併で誕生した府中市の場合は例外中の例外で、まだ自治省(現総務省)の指示が徹底していなかったうえに、両市とも市になったのが同時期だったために起きた現象。ところが、平成の大合併でまた1組誕生することになった。

「伊達市」である。伊達郡7町(その後2町が離脱し5町に)が「伊達市」を申告するも、すでに北海道にあり、好ましくないと跳ね返された。その後他の申請事例等を踏まえ総務省の姿勢が「既存の市から異論がなければ支障ない」と変更された。そこで、北海道「伊達市」に問い合わせると、福島県の「伊達」への配慮から了解が得られ、2例目が誕生した。

本拠地が鹿嶋市なのに「鹿島アントラーズ」なのはなぜ?

Jリーグ発足時(1993年:平成5年)に参画(オリジナル10)したチームは、地元が「鹿島町」だったことから「鹿島アントラーズ」と命名された。ところが1995(平成7)年に鹿島町他が市に昇格する際、鹿島市を申請したが、佐賀県に同名市が存在することから変更を求められやむなく「鹿嶋市」とした。チーム名はファンの心証を慮りそのまま継続。

日本は難読地名の宝庫

「一口」は、一般の常識では「ひとくち」「いちくち」「いっこう」としか読めないが、実は「いもあらい」と読む。京都市のさらに南に久御山町がある。そこに昔から「一口(いもあらい)」という地名がある。この地は桂川、宇治川、木津川の合流地点だという。語源は不明確ながら、「自然災害時の斎(いみ)を祓(はら)う」説には説得力がありそう。

 

実は東京にも、イモアライに関する地名が3つある。いずれも坂の名前。まずは、六本木の交差点近くに「芋洗い坂」がある。さらに、靖国神社のすぐ裏手の坂が「一口坂」。現在は「ひとくちざか」と呼んでいるが、もともとは「いもあらい坂」であった。もう一つはお茶の水駅のすぐそばにある「淡路坂」がそれ。この坂は昔、一口坂とも呼ばれていた。

地名のついた色

「新橋色」:緑がかった明るい青。

「根岸色」:灰みの黄緑色。根岸とは現在の東京都台東区にある地名。

「深川鼠」:青みがかった灰色で「淡鼠」と同色とされます。

「江戸紫」:武蔵野に自生した紫草の根である紫根で染めたことに由来する、青みの紫色。

 

※参考文献;『東京の地名 由来辞典』(竹内誠編/東京堂出版刊)

『日本の地名 雑学辞典』(浅井健爾著/日本実業出版社刊)

『地名の魅力』(谷川彰英著/理想社刊)

『日本の色手帳』(日本色彩学会監修/東京書籍刊)

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2024年7月26日 (金)

「母から息子へ」「子から母へ」の手紙

文字を学び直して書いた、野口英世への母(シカ)の手紙

「お前の出世には、皆たまげました。

私も喜んでおりまする。

どうか早く来てくだされ。

早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。

一生の頼みでありまする。

西さ向いては拝み、東さ向いては拝み、しております。

北さ向いては拝みおります。南さ向いては拝んでおりまする。

早く来てくだされ。

いつ来ると教えてくだされ。

この返事、待ちわびておりまする。

寝ても眠られません」

『親のこころ』(木村耕一編著/万年堂出版刊/p.90-91より)

しかし、研究に追われる英世は、この手紙を受け取っても帰国しなかった(研究が佳境で、多忙で帰国できなかったのも一因か)。これを見かねた英世の同郷の友人が、母親の写真を撮ってアメリカに送った。英世は、母の写真を一目見て、大きな衝撃を受けた。そこには、男勝りだった記憶の中の母親の面影がまったくなかったからである。

野口英世の生まれ故郷である福島県猪苗代町では、この手紙に因んで「母から子への手紙」コンテストが「猪苗代町絆づくり実行委員会」によって続けられている。日ごろ心に秘めている「わが子への想い」を手紙に託し、互いの絆を見つめ直してみようとの主旨。日本全国から寄せられた四千通の母から子への手紙が2003年以降毎年書籍化されている。

 

日本一短い手紙として知られ、簡潔手紙の手本とされるのは、徳川家康家臣の本多重次(通称:作左衛門)が長篠の戦の陣中から妻にあてて書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」とされる。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重)のこと、といわれる。この本多家の居城が福井県丸岡町にある丸岡城。

こうした関係から、平成5年に福井県丸岡町が主催で、日本で初めての試みとして、単なる町興しの為でなく、手紙文化の復権及び昂揚の一環として企画され、一冊の作品集として刊行されたのが『日本一短い「母」への手紙』(福井県丸岡町編/大巧社刊)。32,236通の手紙が寄せられ、その一通一通にへの想いが満ちあふれている。

第一回一筆啓上賞(郵政大臣賞)10作品

お母さん、雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。

もうすぐ雪ですね。(天根利徳さん作)

 

あと10分で着きます。手紙よりさきにつくと思います。

あとで読んで笑って下さい。(瀬谷英佑さん作)

 

「私、母親似でブス。」娘が笑って言うの。

私、同じ事泣いて言ったのに。ごめんねお母さん。(田口信子さん作)

 

桔梗が、ポンと音をたてて咲きました。

日傘をさしたお母さんを、思い出しました。(谷本栄治さん作)

 

母親の 野太い指の味がする

ささがきごぼう 噛まずに飲み込む(鶴田裕子さん作)

 

絹さやの筋をとっていたら、無性に母に会いたくなった。

母さんどうしてますか。(中村みどりさん作)

 

おかあさんのおならをした後の、「どうもあらへん」という言葉が、

私の支えです。(浜辺幸子さん作)

 

お母さん、ぼくの机に引きだしの中にできた湖を

のぞかないで下さい。(福田越さん作)

 

お母さん、私は大きくなったら家にいる。

「お帰り。」と言って子供と遊んでやるんだよ。(藤田摩耶さん作)

 

お母さん、もういいよ。病院から、お父さん連れて帰ろう。

二人とも死んだら、いや。(安野栄子さん作)

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2024年7月15日 (月)

米国の大実業家3者3様の新聞少年体験

❖新聞販売活動から「顧客データ」の価値に目覚めたマイケル・デル氏

日米とも、新聞少年は貧しい家庭環境の人たちが多いようですが、マイケル少年は裕福な歯科医師の家庭だった。その彼が新聞販売に携わったのは、学費目的ではなく、株式仲買人であった母親の影響で、早くからビジネスに関心を寄せていたからだという。その早熟な少年が16歳時に始めたのが新聞の新規購読勧誘のアルバイトだった。

彼は、新規購読者獲得の努力を続ける中で、効率よく契約を獲得するには、ターゲットの絞り込みがポイントになることを理解した。その彼が有力ターゲットとしたのは、「新しいコミュニティに引っ越してきた」「家を建て替えた」「子供ができた」「結婚した」など、直近に生活環境に変化が生じた人たち。まさにマーケティングの実践者だったといえる。

このように、顧客データを分析することで、マーケットのニーズが読み取れることを学んだ彼は、パソコン市場に進出するが、マーケットの熟成度がかなり高まってきていることから、余分なコストをかけず、ユーザーが求めるスペックを提供するという、業界初の受注生産方式を採用した。高度な顧客データ分析が業績向上に寄与したのは言うまでもない。

❖サム・ウォルトンの「やり通す力」を育んだ新聞販売コンクール

彼の弟が兄の成功の秘密を尋ねられた際に述べた言葉は、「子どものころから、サムは心に決めたことをやり通すという点ではずば抜けていた。それは彼の天性の才能だと思う。彼が新聞配達の仕事をしていた頃、ちょっとしたコンテストがあった。確かではないが、賞金は10ドルだったと思う。彼は1軒1軒新聞を売り歩き、コンテストに優勝した」。

サム・ウォルトンの事業は1962年まで雑貨店だったが、この年の7月に最初のウォルマート・ディスカウント・シティを、アーカンソー州ロジャーズに開いた。立地は、周囲から無謀と評されたが、ここから次々に出店を続け、32年後の1999年には世界最大規模のチェーンストアに。新聞少年時代のコンテスト優勝にその片鱗が見て取れるかも。

❖ウォルト・ディズニーを終生苦しめた6年間の新聞配達体験

アイルランド移民だったディズニー一家が最初に住んだカンザスシチーで、父親は新聞販売業を始めることにし、朝刊の『タイムズ』紙と夕刊および日曜版の『スター』紙の配達を700件受け持った。ウォルトは妹のルースと小学校に通っていたが、やがてロイ(すぐ上の兄、その後共同経営者となる)とともに父の新聞配達の仕事を手伝うようになった。

彼は毎朝3時半起床、4時半から来る日も来る日も、朝と夕、新聞配達を続けた。6年間で休んだのは病気の4週間だけであった。まだ幼なかった彼は何度も雪の吹きだまりに転げ落ち首まで埋もれた。受け持ち区域のどこかに新聞を配達し忘れたのではないかという不安は、その後も繰り返し夢となって、ウォルト・ディズニーを晩年まで苦しめた。

※参考文献: 『ビョナリー・ピープル』(ジェリー・ポラス&スチュワート・エメリー&マーク・トンプソン著/英治出版刊)

『デルの革命』(マイケル・デル著/ 日本経済新聞社刊)

『サービスが伝説になるとき』(ベッツィ・サンダース著/ダイヤモンド社刊)

『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯』(ボブ・トマス著/講談社刊)

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2024年7月 8日 (月)

新しい文化を創造した『サラダ記念日』

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日

この歌が実体験からが生まれたことはよく知られている。かつて恋人と一緒に野球を観戦に行ったとき、彼女の手作り弁当の中にはカレー風味の唐揚げが入っていた。これを「この味がいいね」と彼がいった。その小さな感動(恋心には大きかったかも)が発端。注目すべきは、「この味がいいね」の対象がサラダではなくて唐揚げだったこと。

歌人の感覚は、嬉しさや前向きな気持ちがモチーフにしたこの歌に唐揚げは重い。もっと爽やかで軽やかな語感の食べ物が似合っている。そこでサラダを思いついた。そうなると季節は野菜が元気な6月か7月が適しているそうで、ならば断然、「サラダ」の「S音」と響きあう7月の方がいいと。なお、唐揚げだと「K音」なので「9月」となるとか。

『ちいさな言葉』(俵万智著)によると、「サラダ記念日・短歌くらべ」という短歌のコンクールが毎年7月にあり、サラダをテーマにした短歌を募るという。年に7千首も寄せられ、ある年、俵さんが美味しいそうと思ったのは「夏みかんと白菜のサラダ」「上質のオリーブオイルとゲランドの塩で食べるトマトサラダ」「ひよこ豆のサラダ山葵風味」など。

1987年(昭和62)年に河出書房新社から発売された『サラダ記念日』は280万部を超える大ベストセラーになった。同作品には、とても有名な表題歌の他、第32回角川短歌賞を受賞した『八月の朝』などを含む434首が収録されている。この歌集の出版を機に、全国に短歌ブームが起き、また「○○記念日」という言葉が一般に定着することにもなった。

『サラダ記念日』に寄せた佐佐木幸綱氏(早稲田大学の指導教官)の「跋」より

(前・中略)一昨年の角川短歌賞で「野球ゲーム」が次席になり、次いで「八月の朝」が昨年の第32回角川短歌賞受賞作となって、俵万智の歌は歌壇の話題をさらった。さらに、新人類とかライト・ヴァースとか、ちょうど頃合いの流行語と出会うという巡り合わせもあって、話題の輪は歌壇の外側へも広がっていった。

では、俵万智の歌のどこが、新人の名にふさわしい新しさなのか。

まず、口語定型の文体の新しさ。昭和初期と戦後を二つのピークとして、口語短歌が盛んに行われたことがあった。だから口語短歌そのものは新しくもなんともないのだが、彼女の短歌は口語でありながら、そのほとんどがきちっと五七五七七の定型リズムに乗っている。

字余り、字足らずがほとんどない。

かつての口語短歌は破調に寛容であり過ぎた。具体的に言えば、語尾の処理がうまくいかなかったのだった。俵万智の歌は、会話体を導入し、文末に助動詞が来る度合いを減らす工夫がほどこしてある。この辺りがかつてのそれと一味違うのである。

2024年1月10日朝日新聞夕刊 俵万智とAI

「言葉からことばつむがずテーブルにアボガドの種芽吹くのを待つ」

AIが瞬時に100首もの短歌を生成する様子を目の当たりにした彼女は、「言葉から言葉を紡ぐことならAIにもできるが、ゼロから言葉を生み出すことは人間にしかできない。一首一首、世界を見つめ、心から言葉を紡ぐ時、歌は命を持つ」との思いが文頭一首にも。

※参考文献:『日本語の秘密』(川原繁人著/講談社刊)

『ちいさな言葉』(俵万智著/岩波書店刊)

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