孤児院の2人の聖女と乳幼児の死の原因
カルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理と歴史の教師から1944年には校長に任命されていたマザー・テレサは、1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていました。その際に、本人の言葉によると「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたといいます。
マザー・テレサが汽車の中で啓示を受けた同じ年の年末、神奈川県大磯町に「エリザベス・サンダーズ・ホーム」を開設した沢田美喜さん(旧姓・岩崎:旧三菱財閥令嬢)は、東海道線下りの夜行に乗車(特攻隊の生き残りの息子に会うため)していました。終戦翌年でもあり、本数も限られ、車中はぎゅうぎゅう詰めで通路まで人が溢れていたといいます。
列車が岐阜の関ヶ原にさしかかったとき、列車が大きく揺れたせいだったのでしょう、網棚から沢田さんの手元に細長い形をした風呂敷包が落ちてきました。びっくりはしたものの沢田さんはそれを網棚に戻します。するとその直後、二人の警官が列車に踏み込んできて、「これはだれのだ?」と。そして「おまえのだな、あけてみろ」と指示されます。
外交官夫人となり、何か国も赴任経験のある沢田さんは、ひるむことなく風呂敷を解いていきます。ただ、なんとなくおかしな臭いが漂ってきました。これはいったい……なんなのだろう? 風呂敷の中には、新聞紙で幾重にも包まれた「もの」が入っていました。細い紐が十字に掛けられています。それをほどくと、中から出てきたのは赤ん坊の死体でした。
骨と皮だけになった赤ん坊の肌は、濃い茶色に見えました。これは、米兵と日本人女性の間に生まれた子だわ。かわいそうに…。なんてかわいそうなことを…。生ある者として生まれてきたのに、まるでごみのように捨てられてしまうなんて。沢田さんの心には、悲しみと悔しさと怒りがうずまきました。この体験が混血児の孤児院の開設に繋がります。
孤児院で明らかになった接触の大切さ
ヨーロッパで第二次世界大戦のすぐ後に起こった乳幼児の生存についての劇的な実例がある。孤児院での赤ちゃんは十分食事が与えられ、技術的にもよく看護されていたにもかかわらず、死亡率が極めて高かった(職員が殆んどいなかったため、赤ちゃんは手段としての接触はたくさん受けたが、感情表現的あるいは看護としての接触は殆んどなかった)。
その対策として、赤ちゃんを抱き、なだめて、食事を与えるために、未亡人か子どもがいない高齢の女性たちを雇い入れた。すると、乳幼児の死亡率はほとんどゼロにまで落ちた。接触して、抱いて、なだめ、看護することが、本当に乳幼児の命を救ったのである。戦争ですべての家族を失った高齢女性の多くは、うまく赤ちゃんを生き延びさせ、成長させた。
乳幼児期に、他者から受ける接触が、その後の人生で受ける接触よりも多いことは驚くべきことではない。母親と乳幼児との間における接触頻度や間隔はともに、12か月から2歳の間がピークになる。この期間を過ぎると、接触は一貫して減少する。実際には、最初の6カ月に男児は女児より多くの接触を受けるが、その後は女児がより多くの接触を受ける。
参考資料&文献:Wikipedia「マザー・テレサ」項
『名もなき花たちと』(小手鞠るい著/原書房刊)
『非言語行動の心理学』(V・P・リッチモンド著/北大路書房刊)
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