東京タワーの≪2つの声≫の物語とは?
観光に訪れた外国人夫妻が東京の景観に抱いた違和感
当時、東京にはNHK、日本テレビ、ラジオ東京テレビ(KRT、現TBS)の3つのテレビ局が存在し、それぞれに180m、150m、170mほどの電波塔を建て、放送を展開していた。その東京に観光旅行で訪れた外国人夫婦は、東京観光で受けた衝撃として、その3本の電波塔のことを取り上げ、「日本の目覚ましい復興そぐわないと違和感を覚えた」と。
この発信に心を動かされたのが、当時東京に進出直後の産経新聞社長の前田久吉氏だった。氏は東京に進出し事業構想を組み立てる中で、このままでは放送局が新しく立ち上がるたびにテレビ塔が必要となり、東京はテレビ塔だらけになってしまうとの危機感を持っていた。おりしも、監督官庁から総合電波塔構想が示され、広く建設案が求められた。
この審査で選ばれたのが、各放送局から距離の近い芝公園を立地場所とする前田案だった(上野公園を候補地とする案も有力だったが、地盤に懸念があったことと、テレビ局各社との距離も問題視されたという)。なお、芝公園案は地権者(主に増上寺)が少なく、超高度電波塔を建てても、飛行航路に支障がないことが確認され決定の運びとなった。
30周年を期にライトアップを決断させた某アイドル歌手からの電話
現在、東京の夜景にひときわ美しい明りを放っている東京タワーだが、そのライトアップは開業30周年(1989年12月23日)の記念事業として話が持ち上がった。当時東京タワーの人気は下降気味で、その対応策に苦慮していた日本電波塔社員たちは、これを「起死回生のライトアップ」と呼んで、その効果に期待したという。
ライトアップ以前の東京タワーにも照明はついていた。開業時は4本の足に沿って5mおきに約250灯の電球が取り付けられており、タワーの輪郭に沿ってポツンポツンと灯っていたという。その後電球は436灯になり、昭和51(1976)年には696灯となったが、電球が切れることが多かった。しかし取り替えは容易でなく、交換は非定期に行われた。
そんな折、某アイドル歌手から東京タワーの保安課に電話が入った。彼は、「東京タワーの電球がところどころ切れている。みっともないから直してくれ」と。その歌手は地方公演から東京へ戻るときに、いつも新幹線の窓から東京タワーを眺め「ああ、東京へ帰ってきたな」と実感することを常としていたが、今日見たら切れていた、というのだ。
このアイドル歌手の問題提起が、30周年の記念事業としてのライトアップにつながったという。依頼先は世界的に著名な石井幹子氏。氏は「依頼を受け。確かに近頃、東京タワーは影が薄いなと。当時の東京タワーは貧弱なテレビ塔といったイメージで、昼間のタワーは評判が良くなく。東京のランドマークなどと思っている人はいませんでした」と
デザインコンセプトは「昼よりも夜の方がきれいだと言わるライティング」。そして、鉄塔に負荷のかからない「なるべく少ない灯数で効果を発揮すること、エッフェル塔の半分の電気容量で賄える、日本的なものをつくる」。そのために、タワーの脚下、渋谷、西新宿の高層ビル、新橋のビル、パレスホテル付近などから夜間の東京タワー観測を行った。
※参考文献:『 東京タワーとテレビ草創期の物語』(北浦寛之著/ちくま書房刊)
『東京タワー50年』(鮫島敦著/日経ビジネス文庫)
