ライバルを束ねた岡田屋→イオンの場合
岡田屋のルーツと先進的経営法
イオンの前身は四日市の岡田屋呉服店(創業は江戸時代に遡る)。四日市という交通の要衝に位置した岡田屋はかなり先見的な経営を行っていた。1887年には五代目・惣右衛門が「見競勘定」という現代でいう貸借対照表を導入した複式簿記を採用している。92年には店規則(現代でいう就業規則)を定め、店員の資格制度や給与規定を定めている。
1904年には商品券を発行し、店舗を2回移転している(土地に拘らないのは岡田屋の伝統)。21年には呉服店だけではなく洋服部を設置し洋服の販売を始め、株式会社岡田屋呉服店を資本金25万円でスタートした。同時に帳簿を複式帳簿とした。当時四日市では株式会社は数軒であり、岡田屋呉服店は近代的な進歩的な会社として有名だったという。
1946年6月岡田卓也氏が大学生社長に就任。1958年、近鉄四日市駅前にSSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストアの略)の百貨店(オカダヤ百貨店)をオープン。この時代を先取りした業態(セルフサービス&ディスカウント)は、四日市市民はじめ近隣から支持され、同駅前に同時期開業の近鉄百貨店を凌駕したという。
流通革命への目覚めと環境整備
岡田卓也は1959年に1か月米国を視察。当時の米国小売業は日本とは比較にならないほど近代化しており、全米中に広がる広域のチェーンストアがあった。そのうちの一つA&Pは7000~8000店という規模であった。この小売業の姿がいずれ日本にも訪れるだろうことを岡田は予測し、またそうすべきだと実感して脳裏に刻んだ。
明確な目標をもぅった岡田は、帰国後、四日市店の増床、伊勢オカダヤをオープン、桑名店をオープン、スーパーマーケットの橋北店、富田店、富州原店の3店を同時オープンと本格的にスーパーマーケットに着手した。1963年の新入社員は200名で大卒の採用を積極的に展開した。大学は北海道から鹿児島まで広く、採用大学は18校に及んだ。
岡田屋は1964年に初の県外店舗を愛知県岡崎市にオープン。開業に際しては通例の披露パーティーは行わず、その代わりに岡崎市に700本の桜の苗木を寄付した。これは岡崎市の城跡付近に植えられ、いまでは岡崎公園の桜の名所となっている。これが端緒となって、その後イオンは進出先での地道な環境整備に力を入れるようになった。
当時の日本では、メーカーの大量生産に対応する小売業が存在しなかった。そのため、価格決定権をメーカーが持ち、小売業は下請けのような立場でしかいられなかった。そのような体制では本来の消費者へのサービスというものができないと岡田は考え(ダイエーの中内功氏にも通じる)、メーカー主導から小売り主導への本格的流通革命にチャレンジする。
自力拡大では時間がかかりすぎるため「合併」による拡大にシフトチェンジ。伊勢の「カツムラ」、静岡県の「マルサ」、豊橋市の「浦柴屋」と業務提携・合併で態勢を整えた。直後に岡田屋とほぼ同規模(ライバル)の兵庫県フタギと合併に向けて新会社設立の準備委員会を発足させ、その後、大阪のシロも加わりジャスコが設立されることになる。
合併では、ライバルだった3企業をいったんご破算にし、まったく新しい組織を作った。その後の発展につながる合併成功の要因は、最初に3社で異なる「用語の統一=ジャスコ統一用語」を作成したことか。これにより社内コミュニケーションが円滑に回り出した。また、出身母体によるハンデが生じない各種の施策(特に人事政策)はどれもお見事。
※参考文献:『イオンを創った女』(東海友和著/プレジデント社刊)
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