文学作品から知る日・欧の自転車事情
夏目漱石の『自転車日記』
「近頃は人から勧められて自転車を始めたものですから、朝から晩までそればかりやっています」「自転車は面白うござんすね、宅ではみんな乗りますよ」——こんなやりとりが、漱石の短編『自転車日記』にある。1902年秋、留学中の漱石は初めて自転車に乗り、操縦の習得に悪戦苦闘しながらも、やがてしばしば郊外へのサイクリングに出かけた。
イギリスでは1885年に現代の一般的な自転車の元祖といえる「セーフティ型」が登場、空気入れタイヤの普及も手伝って、1890年代半ばには欧米諸国で爆発的な自転車ブームが起きた。一種のバブルでもあったこのブーム後のロンドンで、漱石は自転車を初体験し、「宅ではみな乗りますよ」といった女性の言葉にうろたえたのだった。
ただ、イギリスと聞いて自転車を思い浮かべる人は現代では稀だろう。自転車はビクトリア朝末期の女性の自由を拡大し、1920~1930年代には労働者の通勤や余暇の足として社会に広く浸透した。輸出先のオランダに根づいたママチャリ型車体(現地では「オマフィーツ=おばあちゃん自転車」:ダッチ・バイクとも呼ばれる)もイギリスではほぼ姿を消した。
テムズ川沿いの幹線自転車道路などは素晴らしく、シェアサイクルも充実しているものの、地下鉄やバスも便利なことから、自転車の存在感は強いとはいえない。市のデータでも、自転車が移動の主な手段となった割合(交通分担率)は2016~2019年で約2.5%(20年前比では2倍に)と低水準で、28%のオランダやデンマークとは一桁違う。
北杜夫『どくとるマンボウ航海記』
「この国ではネコもネズミも自転車に乗る」。船医として世界を巡った北がロッテルダムで見た光景は、彼にとって驚くべきものだった。「雪の中を、脛をだした若い娘が自転車でゆく、スラックスの娘もゆく。お婆ちゃんまで勇ましくベダルをこいでゆく」。『航海記』は1960年作だが、オランダは今も自転車の国、それも世界一の自転車利用大国である。
約1750万人が暮らす同国の自転車保有台数は2018年の推計で約2290万台(うち210万台が電動アシスト)、人の移動の主な手段(代表交通手段)は、2019年のデータで約28%を自転車が占める。オランダ自転車利用度(交通分担率)の高さは、2015年の推計値で他国と比較すると人口およそ3分の1のデンマークと同等、ドイツやイタリアの約2倍、イギリスやフランスの6倍強、アメリカの約12.5倍と突出している。
日本ではしばしば「欧米」が一括りに自転車先進国と呼ばれるが、大半の国は日本より自転車利用が遅れていて、オランダやデンマークを仰ぎ見る立場にある。オランダの人々にとっては「自転車に乗ることは息をするようなもの」で、「特に考えたりせず当たり前にそうしているだけ」だ。世界の都市では今、日常的自転車文化の形成が共通目標になっている。
生活に溶け込んだオランダの自転車文化は、自転車のタイプからも窺える。とりわけ象徴的なのは、歩行に似た姿勢で乗れ、跨ぎ易いフレームを持った「オマフィーツ」(おばあちゃんの自転車)で、性別・年齢を問わずに多くの人に使われている。なお、オランダでは自転車利用の抑制材料になりがちなヘルメットの義務化はなされていない。
※参考文献:『世界に学ぶ自転車都市のつくりかた』(宮田浩介編著/小畑和香子&南村多津恵/早川洋平共著/学芸出版社刊)
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