「作業」「雑用」といった誤った認識について
稲盛氏は、「現場にはヒントがたくさん」あるとして、ある先輩社員とのエピソードを『京セラフィロソフィ』に書かれています。その先輩社員は大変真面目な方で、黙々と仕事をされていたと。あるとき、セラミックの原料となる粉を混ぜあわせる際、先輩が洗い場に座り込んで、一生懸命にボールミル(陶器製容器)をたわしで洗っていました。
中に入っているボールには欠けてくぼんでいるものもあり、そのくぼみに実験で使った粉がこびりついていたりするので、彼はそれをヘラでほじくって、きれいに水洗いをしていたのです(一見要領悪そうに)。実験を始めた当初の稲盛氏は、「この原料とこの原料をボールミルに入れて混ぜる」と学校で習ったとおり、何の気なしに混ぜていました。
ところが、いい加減に洗っている稲盛氏は、なかなかよい実験結果が得られない。そこで頭をガーンと殴られたような気がしたそうです。簡単に洗っていたのでは、前の実験で使った粉が少し残ってしまう。そのわずかな異物の混入がセラミックスの性質が変えてしまったのです。そのことから「現場主義」を尊重する京セライズムが確立されました。
次は「雑用」について。著書に『置かれた場所で咲きなさい』がある元ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんの「雑用」という文章が『忘れないでおくこと』という本にあります。渡辺さんは、家庭の事情もあり30歳近くまで働いてから修道院に入り、英語堪能者だったことから、たった一人の日本人修練女として、ボストンの修練院に派遣された。
修練院は朝5時起床、夜9時就寝の間の時間は、ほとんどが命ぜられ単純労働。そんなある夏の昼下がり、渡辺さんは夕飯の配膳をしていた。一つひとつのパイプ椅子の前のテーブルに皿、コップ、フォーク等を並べるのである。いつの間にか背後に修練長が来ていて、彼女に「シスター、あなたは何を考えながら仕事をしているのですか」と尋ねた。
とっさのことでもあり、「別に何も」と答えた渡辺さんに、修練長は「あなたは、時間を無駄にしています」と叱責するのでした。命じられた仕事をしているのに「なぜ」といぶかる渡辺さんに、修練長は穏やかに言いました。「同じ並べるのなら、夕食を摂る一人ひとりのために、祈りながら置いていきなさい」と。それ時までの渡辺さんは…
仕事はすればいい(doing)と考えていたが、仕事は意味あるものとする(being)ことが大切なのだ。時間の使い方は、そのままいのちの使い方になるのだと。そして、この世の中に雑用はない、用をぞんざいにした時に雑用になるのだというように考えを改めました。雑用を雑用とすることなく、平凡な暮らしを、非凡な日々にして過ごしていこうと。
参考文献:『京セラフィロソフィ』(稲森和夫著/サンマーク出版刊)
『忘れないでおくこと』(暮しの手帖編集部編/同社刊)
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